この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

「です、ます」で書くブログ

このブログを書いてきて、気がついたことがあります。音声入力だとどうしても「ですます」調になる、ということです。日本語には「だである」調と「ですます」調があるんですが、無意識のうちに「ですます」調を選択している。もちろん、「ですます」調できれいに統一されるかというと、そういうわけではありません。文の途中で「何々だ」「何々である」「何々する」と、「だである」調をはさむ。こういうことは割とよくあります。けれど、それはどちらかというとカギ括弧つき、あるいはリズムをつける、というような中で出てくる気がします。基本的には「ですます」調で喋ってるんですね。そうやってしゃべるということは、当然ブログが「ですます」調になるということです。
「だである」調を苦手にしてるのかっていうと、ふだんタイピングでものを書くときは「だである」調の方が多いですね。ブログもそうですし、その他の文も、基本的には「だである」調です。もちろん、これまでに「ですます」調でブログやメールマガジンを書いてこなかったわけではありません。「ですます」調の記事と「だである」調の記事が混在してるブログも結構ありました。変幻自在の調子で文を書くっていうふうなコメント頂いたこともあります。いろんな調子で書くことはできる、それだけの技術は持ってるつもりです。けれど、こうやって音声入力をするときには、「ですます」調が圧倒的に楽なんですね。

現代日本語においては、会話の形式は「ですます」調が基本になっている、そう解釈するのがいいのではないかと思います。もともと「ですます」の「ます」っていうのは「申す」から来てるのでしょう。「です」は、軍隊用語の「であります」が省略されて「です」になったのでしょう。「であります」っていうのは「ます」ですから「申す」なんですよね。つまり申し上げると、下から上に向かっての言い方です。ですからこれは、丁寧な言い方となる。一方、「だである」調というのは断定的な言い方となっています。現代の話し言葉ではあまり用いられません。まったく用いられないのかというとそんなこともなくて、(30年以上前と少し古い話になりますけれども)私が会社に勤めてた頃、ボスがよく「もうこれで十分だ」「さ、飲みに行こう」、そして店に入ると、「君はどうするね、私はビールだ」みたいな言い方をしておりました。「だ」をしっかりと使って話をしていたわけですね。学校文法的にいうと、「十分だ」は形容動詞の終止形ということになります。「私はビールだ」っていうのは「ビール」という名詞に「だ」という断定の助動詞がくっついたと解釈されます。
「だである」調は「ですます」調と意味内容は同じで、ただ「ですます」調が丁寧であるのに対して「だである」調は丁寧ではない形であるとされています。けれど、よく考えてみますと「十分だ。飲みに行こう。私はビールだ」というのは、ボスとしての立場から意思決定している文になるわけですよね。つまり、「だである」調は、基本的には決定事項の伝達や命令に用いられる。通常の会話では、「だである」調は、上の立場の者が下の立場の者に伝達する形、あるいは命令する形になってしまうんですね。日本の会話においては、上の者は下の者に対して説明はしません。説明はせずに方針を述べる、あるいは命令を下す。これが上の者が下の者に対する話し方の基本です。一方、「ですます」調では「申す」なのですから、これは立場が上の人に対する報告という形が基本になっています。下の者は上の者に対して報告をし、お伺いを立てるという形が基本になります。これが「ですます」調です。

ブログを書くとか本を書くというのは、基本的には決定事項の伝達や命令ではありませんし、報告やお伺いでもありません。叙述(ナレーティブ)です。そして、ナレーティブをしようとするときには、この上の者から下の者へのスタイルは、少なくとも音声として出すときには、うまくいかないんですね。上の者は下の者に対して説明する義務がないのが、日本の社会のあり方です。だから、「だである」調ではナレーティブは続かない。これに対して、下の者は上の者に対して事細かに説明しなければなりません。お伺いを立てるには、詳細に説明する必要があります。だから、下の者から上の者に話すスタイル、つまり「ですます」調は、ナレーティブを行う上でわりとうまくいく。だから、このブログのように音声入力で綴ろうとすると、どうしても「ですます」調になるのではないかと、そんなふうに思うわけです。実際、小学生に作文を書かせると、ほぼ百パーセント、「ですます」調です。中学生でもそうですが、タイミングをみて「だである」調の練習をさせます。生徒によっては、最後まで「ですます」を抜けられない場合もあります。そのぐらい、「ですます」のほうが使いやすんですね。

もともと日本語にはナレーティブを行う平体つまり丁寧ではない言い方がなかったのでしょうか。おそらく、現代の日本語の用法が確立する以前には、別なものがあったのでしょう。たとえば、古文書なんかには「なり」という表現がよく出てきます。そういう言い方がいつのまにか消えて、「だである」という割と使いにくい表現が生き残った。そして、書き言葉としてはその調子でナレーティブも可能だけれど、話し言葉では違和感がある。だから、「ですます」調のほうが好まれる。こんなふうに考えると割と理解しやすいんじゃないかなと思います 。