この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

農業から薪の販売へ

戦争が終わる前のことか戦争が終わってからのことか、ちょっとはっきりはしないのですけれど、父が農業をやってた頃、肥汲みが仕事のうちだったと話してくれたことがあります。江戸時代、都市部で出てくる屎尿を汲み取って近郊農業が行われていたのはよく言われていることです。「江戸はエコ」みたいな本にはたいてい書いてあります。いまの練馬区や足立区といったところの百姓が長屋に肥汲みに来て、そして野菜を置いていく。物々交換でリサイクルが行われていたのだ、というようなことが必ず出てきますね。この「肥料として屎尿を持ち帰って近郊の農村がそれによって成り立つ」構造は、江戸時代どころか1960年頃を境にして急速に化学肥料が普及するまでは、都市近郊では普通に行われてたもののようです。もちろん化学肥料は戦争前からありますから、徐々に徐々に置き換わっていったわけです。けれども、手近なところにあり、しかも昔から実績があるものとして、比較的最近まで下肥が利用されていたのは、間違いないようです。そういえば私が子どもの頃、1970年前後までは、たしかに近くの田んぼにはあちこちに「ドツボ」とか「野壺」と呼ばれる肥溜めがあって、危ないからと近づくのを堅く戒められていたものです。もっとも、臭いので言われなくても近寄ろうとは思いませんでしたが。

父の話に戻ります。父の上の兄は兵隊に取られたわけですけれども、親代わりだったいちばん上の兄はもう四十がらみの中年だったこともあるのでしょう、戦争には行きませんでした。その下の次兄も、理由はわかりませんが兵役を免れておりました。農村経済を支える重要な働き手だったからかもしれません。この次兄が主に家業を差配していたようです。肥料を取りに行くのもこの次兄の監督の下で父が行くわけです。交通機関といいましても、現在の軽トラみたいなものはありません。牛に荷車を引かせるんですね。牛車というと平安時代の貴族のものを思い浮かべるわけですけれども、戦争前の農村においては牛がノロノロ引っ張る荷車を牛車と呼んでいたようです。この牛車に肥桶をどんどんと積みまして、父がゆっくりゆっくり追っていく。牛のスピードですから、非常にゆっくりしたものです。大和川を渡る橋がその頃は近くにありませんので、ぐるりと大回りして追っていく。4時間とか5時間かかるような道のりを大阪の住宅地へ向かう。天王寺の近く辺りまでは行ったようです。一方、次兄の方は、頃合いを見計らいまして、近道をささっと追いついてくる。目的地付近で合流しました二人が、あらかじめ決められた長屋を訪問しては肥え汲みをするわけです。ずいぶんとひどい言葉もかけられたといっておりました。汚いであるとか、そんな桶の持ち方をしたらそこらじゅうに汚いものが飛び散るからやめてくれとかね。桶は、天秤棒で前後に担ぐスタイルで、細い路地や家の中に入っていったようです。そして大根のような野菜を置いていくのに、それが多いの少ないの虫食いだの泥がついているのと、文句を言われる。ずいぶんと邪険な扱いも経験したそうです。

そんな昔ながらの農業を、父は戦争が終わる前後に行っておったわけです。戦争が終わりますと、一気に世の中の様子が変わります。たとえばそれまでは近所ではどちらかというと浮いた存在だったアメリカかぶれの若者がいたそうですが、その人が何やら米軍にツテができたのか、いきなり羽振りが良くなるとかいったことがあったとも聞いております。

戦争が終わりますといろいろ物資の統制とかもあります。都市部の人々は買い出しで苦労したというような話が伝わっておりますが、父は農村の人でしたから、立場が逆でした。闇で食料を分けてほしいという人もやってきたようですが、大家族のなかの下っ端だった父はその相手をすることはなかったようです。

そのような統制経済の中で、その統制をかいくぐるように経済の中心部に躍り出てきたのが朝鮮人です。朝鮮人という言い方はやや差別的な色合いが入って使われておりますけれども、これは当時としては正式な名称でした。終戦とともに日本は朝鮮半島の領有権を手放しました。その関係上、朝鮮半島出身者(朝鮮籍の人々)は一種の無国籍状態になったのですね。この人々のことを朝鮮人と法律上区分したんだそうです。後に朝鮮半島の方で国家が成立するとともに、この朝鮮人という区分はいろいろな変遷を経ていくわけですが、終戦直後には旧朝鮮籍の人々がかなり日本全国あちこちにいたようです。特に大阪には結構多かった。これらの人々はもちろん戦争中はずいぶんと虐げられてきたわけですが、戦争が終わり、日本国政府の管轄外に置かれるんだという主張の元に、経済活動を自由に行うようになったそうです。物資不足の統制経済のなかで、自由に動けるんだと主張し、公権力もあまり強くそれを否定できなかったようです。そういう人がこの地域にもいたんだそうです。

父と彼らの間でどのようなつながりがあったかと言いますと、直接つながりがあったというよりは、次兄を通じて仕事が舞い込んできたのですね。どういう経緯だかは知らないのですが、次兄は、ある朝鮮人から燃料を調達してほしいと頼まれたようです。なぜ燃料を調達する必要があったかといいますと、朝鮮の人々が戦後いろんな経済に手を出していく中で、特に知られておりますのがどぶろくの製造でした。密造酒です。朝鮮半島では伝統的に台所でどぶろくの製造をどこの家庭でもやる文化があったようです。だから、もともと技術はある。そして、どぶろくをつくろうとすると、その前に甘酒をつくる段階がある。麹で澱粉を糖化するプロセスです。この麹によって澱粉を糖化したものをそのまま煮詰めますと、水飴になる。戦争直後で物資が不足する中で、特に甘いものに対する需要が非常に高かった。そこで、朝鮮の人々のなかには水飴をつくってそれを販売する事業を起こす人が現れた。少なくとも堺にはそういう人がいた。このプロセスでは、澱粉を加熱して麹が働く条件を整えてやらなければなりません。つまり燃料が大量に必要になる。そこで近郊の百姓でありました父の兄に燃料がないかと持ちかけるのは自然な流れであったのだろうと思います。

当時この新田地区の周辺の山林には松林が多かったようです。松林といえば、戦争中にガソリンが不足するから松の根を掘り取ってそこからガソリン代替の油を精製することが一部では行われていたようです。松根油というものですね。ただ、父の話では、戦争中に特に堺の辺りの松を大規模に掘ったということはなかったようです。とはいえ、そういう社会の空気の中で、松を燃料のために勝手にとっていいんだというような雰囲気が生まれていたのかもしれません。ともかくも、父は次兄の差配の元、牛車で燃料としての松を堺の街に運ぶ仕事もするようになった、と聞いております。