この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

包装用品販売業の成長

私が子どもの頃、家には、「これはいったい何に使うんだ?」「なんでこんなものがこの家にあるんだ?」みたいなものがちょくちょくとありました。それは、父の会社の取引先が倒産したときに、差し押さえで持ち帰った品物だったんですね。企業が倒産すると、債権者はまず在庫を差し押さえる。もちろん差し押さえた側の会社は、少しでも債権回収ために差し押さえ品を現金に替えようとします。大阪にはバッタ屋と呼ばれる商売があり、そういう倒産流れ品であるとか、ちょっと出所のわからない怪しげなものを買い取ってくれます。しかしそれでも、バッタに流すようなこともできないような半端な品物、あるいは逆に「これは家の方でもらっといた方がいい」と思えるような品物だと、家に持って帰ってくる。そういうことがありました。昭和の昔にも、それなりに会社の倒産は多かったんですね。景気・不景気の循環があって、不景気になると会社が潰れる。それは昔も今も変わらないわけです。

実際、現在まで生き残ってる有名企業の中にも、かつて倒産を経験してる会社がいくつもあるようです。父が話してくれたことによると、あの「かっぱえびせん」で有名なカルビーという会社も、倒産を経験しているそうです。カルビーは押しも押されぬ大製菓会社ですけれども、もともと戦後広島の焼け野原の中から立ち上がった会社です。ちょっと前に堺の朝鮮人の飴屋の話を書きましたけれども、戦後はとにかく甘いものが不足しております。そこで、原料となる物資を手に入れることができた人が、甘いものを供給することによって一気に成長する素地があった。カルビーも、戦争中に軍が備蓄していた物資に対して何らかのアクセスが可能だった人が関係者の中にいたそうです。それで戦後すぐに甘いものを供給できた。広島は原爆で被害が大きいのですけれども、カルビーはこれを逆手にとって、「原爆=いちばん強いもの」というイメージを初期の頃は商売の旗印にしていたようです。戦後すぐの日本には、いまのように放射線に対する恐怖があまり浸透しておりません。新型爆弾の威力がすごいものだったということは、みんな知っております。その被害が筆舌に尽くし難いものだということも理解しております。けれども、そこで撒き散らされた放射線による健康被害、それが長年にわたって人の体を蝕んでいくという事実は、まだあまり知られておりません。ということで、原爆を商標やデザインに使った商品をつくると、子ども相手にけっこう売れたんだそうです。

このカルビーの社長が、あるとき、リュックサック一つ背負って松屋町筋に現れた。新しく店を出しておりました父が小僧として店番をしている眼の前に、ふらりと現れたんだそうです。新しく事業を始めたから包装紙を売ってくれ、ということなんですね。この会社がそこまで急成長するとは、当時父も次兄も予想してなかったんだと思います。けれども単身乗り込んできて熱心に語る社長にほだされて、次兄はこの広島の会社に包装紙を卸す決断をします。カルビーは戦略が成功したのか、急成長を遂げていきます。いくらもたたないうちに、この新しい会社は次兄の経営する会社の最大の大得意先になるわけです。すぐにカルビーは大阪にも支店を出して、この大阪支店との間でかなり大量の取引が行われるようになる。いつのまにか会社はカルビーにおんぶにだっこという形で経営を続けるようになったそうです。

そのカルビーが倒産した。いったいいつ頃のことなのか、正確な年代までは私は聞いておりません。カルビーのホームページを見ましても、倒産したという不名誉な経歴はどこにも書いてません。事実関係は不明で、あくまで父の言葉だけによるのですけれど、黒字倒産だったようです。急成長の会社にありがちなことです。発注に対して生産が追いつかないとか資金繰りが間に合わないということから、黒字倒産が発生します。黒字倒産でも倒産は倒産ですから、不渡りが出るわけです。取引先は非常に困るわけです。

情報をいち早くキャッチした父の会社は、まずはとにかく大阪支店のものを差し押さえる。それでも最大の得意先ですので、売掛金の回収にはとても足りません。そこで父はオート三輪に乗りまして、広島まで現物を差し押さえに行ったんだそうです。まだまだ道路網も整備されていない時代、それだけでもかなりな冒険だったと思われます。ちなみにカルビーは、すぐに再建を果たしました。もともと黒字倒産ですから、そんなに深刻なものではなく、すぐに経営が回復し、不渡りだった手形も順に支払っていったということです。社会的な信用も落ちず、順調にその後も成長を続けることになったわけです。だからこそ、現在の姿があるのですね。

ただし、この事件は父の兄の経営する会社の経営方針に大きな影響を与えます。一つの会社にぶら下がっていたのでは、何かあったときに非常に影響が大きい。経営というもの危なくする。健全な経営のためには、取引先を分散させる必要があるんだということを、会社全体が認識したんだそうです。このあたりの方針変更が、実はその後の父の活躍の下地になっていくわけです。そういう意味では、父の人生にとって実に重要な事件であったようです。