この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

家一軒分を飲んでしまった話

昭和の頃の男の遊びといいますと、飲む、打つ、買うの三つということになっております。父は、私が知っております限りにおいては、飲む──酒を飲むことはずいぶんとやっておりました。晩年に至るまで晩酌は欠かさなかった。打つ──つまり博打に関しては、まったく手を出しませんでした。商売人としては、最終的に損をすることがわかってるものに対してお金を出すのはあり得ないことだったようです。もちろんすべて商品というものは、最終的にはお金が出ていくわけです。けれども、それによって戻ってくるリターン、満足度でありますとか利便性といったものがある。博打に関しては、戻ってくるものはお金でしかないわけです。金を払って金を得る。であれば、戻ってきたものの方が支出したものよりも増えていなければおかしい、というのが商売人の考え方だったようです。買う──つまり、女遊びのほうは知りませんね。少なくとも私が知ってる範囲の父は堅物であり、母に対して一切の不貞を働かなかったと記憶しております。もちろん子どもの知らないところで何をやってたのかまでは断言できません。けれど女の人のいる店に行ったという話は一切聞かなかった。家庭内でも猥談のようなものは一切しなかった。そういう人でした。

なんでこんな話をしたかと言いますと、晩年になって父が家一軒分をまるまる遊びに使ってしまった、という話をしてくれたからなんですね。どういうことかといいますと、実は父はいちど、次兄の会社を辞めている。そして、一年だか二年だか、遊び人をやっていた。そういう事実があったようです。

父が勤めていた包装用品販売店は、会社だといっても、先に申しましたように、江戸時代以来たいして代わり映えのしない営業、つまり、住み込みの小僧を使うような商店です。小僧である父としては、どこまでが生活でどこまでが仕事かわからない。ですからもう高校出て大人になってしまった父としては、いったい自分が何のためにこき使われてるのか、わからなくなってしまったのでしょう。高校までは出してもらったものの、その後も兄弟の力関係の中でこき使われることが続き、嫌になってしまったんでしょう。

ちなみに、父は長いこと、親戚の中では「無口な人」で通っておりました。けれども、これは標準的な河内の人がおしゃべりだということの裏返しであって、そこまで無口ではありません。普通に日常的なことは喋ります。「風呂・飯・寝る」で生きているような人では、当時からなかったと思います。けれど、河内の標準からいえば、父ぐらいに喋らない人はもう無口の極みみたいに思われていたようです。そして、この無口な性質の引き金になったのは、父が若い頃、吃音つまりどもる喋り方をしていたということではないかと思います。母によりますと、結婚した当時はまだこの吃音が残っていたようです。それは次第に解消して、私の記憶では吃音はもうなかった。吃音ですけれど、私の周囲を見てみますと、これはストレスが原因で始まることが多いようです。ということは、おそらく父は小僧から昇格した会社勤めの中で、毎日ストレスを感じていたんでしょうね。それで吃音が始まったのではないかと想像しております。

そのようなストレスの中で、父は会社を辞めます。会社を辞めればすぐに生活に困るかというと、実はそんなことはなかったのです。父は末っ子ですので、母親──つまり私の祖母からは非常に可愛がられておりました。ティーンエイジ以降には次兄夫婦が親代わりのように父を育ててきたわけですけれども、実際の母親はちゃんと里にいるわけです。松屋町筋の奉公から帰った父を、彼女は温かく迎えます。それまでも父のためには、いろいろ手を尽くしているのですね。たとえば父が農業をやっておりましたときには、父のために一反の田んぼを買い与えております。どのような経緯で購入したのかよくわかりませんけれども、戦後の混乱期ですので、男手が減ってますから、耕し手がない田んぼを手放そうという人もおそらくはいたのではないかと思われます。そういう時に末っ子のことを思い出して田んぼ買っておいてやる。そういう母親であったようです。その彼女が、父が小僧として只働きのように働かされているのを不憫に思ったのか、まとまったお金を用意してくれました。これで独立しなさい、というわけですね。といっても、現代のような意味での独立資金ではありません。昔の百姓屋のことですから、田んぼはあるのであとは家を建てたら、それで暮らしていける、という感覚だったのだと思います。だから、家を建てるための資金として、まとまったお金を父に与えてくれた。金額も聞いたんですが、忘れてしまいました。物価もちがいますから、覚えていてもあまり参考にはなりません。

しかし、考えてみれば無謀な話です。まだ二十代半ばの父にとって、そんな大金を手にするのはかなり荷が重かったはずです。父は、持ち慣れないお金を持ってどうしたか。遊びに行ったわけです。日が暮れ方になりますと、粋な着流しに身を包み、ミナミまで出かけていく。繁華街に着きますと、そこの通りの端から一軒ずつ順に潰していくスタイルで、毎晩毎晩遊び歩いたんだそうです。

これがいったい飲む方だったのか買う方だったのか、私にはとんと見当がつきません。ただその後の父の言動から考えまして、どちらかというと飲む方だったんじゃないかなという気はしております。一年ぐらいだったように聞いたと思うんですが、正確なところは忘れました。一年半だったかもしれません。そうやって飲み歩いておりますと、当然お金は減っていきます。もらったお金が半分まできたとき、さすがに父もこれはまずいと思ったようです。それで残ってる半分のお金でもって、家を建てました。建てた土地は、もともと実家の持ち物であった蕗畑です。小高い丘の麓にちょっとした湿地があって、ここが蕗の畑になっていたようです。その蕗畑を貰い受けた。

ちょうどそこから浅香の駅にかけて、この頃に新たな住宅地が造成されています。おそらくその丘を削るブルドーザーが入ったその同じ時期に、この蕗畑も整地されたんだと思います。この辺りは推測です。なぜそんな推測が成り立つかというと、この家を建てた数年後には結婚して母がその家に入りますが、そのときにはもう浅香の駅までずっと平地として見渡せたと聞いているからです。電車が通っていくのが見えたそうです。ということは、おそらく家を建てた段階では丘は削られてのでしょう。

ともかくも、もらったお金の半分で家が建った。ということは、飲んでしまった半分のお金は、実は家一軒分の価値があったわけです。若い父は、家一軒分を飲み尽くしてしまった。そんな無鉄砲なことをしていたことを、死ぬ直前まで家族には黙っていた。父にはそういうところもあったようです。