この声は届くか

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ポリエチレン袋販売の黎明期

プラスチック製品は基本的に戦後のものです。戦争前から合成樹脂は研究され、日本国内でも多少は生産されてはいたわけですけれども、これらが実際に製品に利用されるようになったのは、第二次世界対戦中、アメリカとイギリスでのことだったそうです。

プラスチック製品の中でも、特に包装資材として用いられるようになったのは、セロファン、塩化ビニル、ポリエチレン、ポリプロピレンなどです。この中で最も早く市場に出たのはセロファンです。ただ、多くのプラスチック製品が石油化学製品であるのに対し、セロファンは原料が木材です。どちらかといえば、紙に近い。石油化学製品に限りますと、比較的早く製造技術が確立したのは塩化ビニルだそうです。それにしても、日本国内で商業的な製造が始まったのが1950年頃のことだそうで、戦争が終わってから5年ほど経っています。ポリエチレンの生産は、それからさらに十年近く遅れます。1958年に最初の製造ラインができたそうです。ただ最初のうちは生産量も少ない上に、生産されたポリエチレンをさらに製品化していく加工業はさらに遅れます。ですので、ポリエチレン袋やフィルムが現在のように広く利用されるようになるのはさらに後のことになります。

ポリエチレンよりも塩化ビニルの方が先に人々の目に触れるようになった関係からか、普及期にはプラスチック袋のことをビニル袋と呼ぶようになりました。いまだに年配の方などは、プラスチック袋のことをビニール袋と呼びます。包装資材を扱っておりました父は、(俗称としてビニール袋という言葉を使わなかったわけではありませんが)、プロですので「あれはポリ袋というのが正しい」と、子どもである私にもよく言っておりました。私が子どもの頃には、すでに父の仕事はポリエチレンの卸売りになっていたのです。私は1960年の生まれですので、物心ついた頃というのは1960年代半ば過ぎです。その頃にはもうポリエチレンが会社の主な仕事になっていました。つまり、1960年代前半までに、もともと紙袋を主に扱っておりました父の次兄の経営する会社は、ポリエチレン、さらに加えてポリプロピレンを主体に事業を展開するように大きく舵を切っていたのですね。

前に述べましたように。1950年代半ばまでのどこかで、父は一旦会社を辞めて遊び人の生活をやっておりました。その父が結婚したのが1958年です。その結婚をするまでに、父は次兄の会社に戻っています。いつ頃戻ったのか逆算してみますと、おそらく1956年です。といいますのは、父は母と結婚するまでに二十何回のお見合いをこなしております。いくつも縁談があったのをすべてことわっているわけですね。この次々ことわった縁談を含めて父の結婚については次回に話そうと思うんですけれども、重要なことは二十数件の縁談をことわるには、たとえ片っ端からことわっていったとしても、一年以上はかかるであろうということです。そして、先に述べましたように、父は遊び人をやっていた。どこにも勤めずにただ毎日を飲み歩いているような男には、絶対に縁談はやってきません。ということは、母と結婚する一年以上前には、もう父は再び仕事をしていた、つまり次兄の会社に戻っていたのだと思われるわけです。

元の会社に戻っていくらもたたないうちに、プラスチック製品が出回るようになります。包装資材として新しいプラスチックは無限の可能性をもっている。まだ会社そのものが若かった時代です。そういう新しい流れに飛びつくのに障害はない。まずはセロファンを扱うようになっていった。飴の包み紙なんかにもよく使われておりましたね。このセロファン紙からビニル、さらにはポリエチレンへと進んでいくのは自然な流れだったようです。

この新しいポリエチレン事業に、前に述べましたカルビーの倒産が影響を及ぼします。どういうことかというと、急成長期に、次兄の会社はカルビーへの売上に依存しておりました。だから、カルビーが一旦倒産したときには会社の存続に関わるような打撃を受けた。もちろんその打撃はカルビーが復活するとともにすぐに回復するわけですけれども、もうそのようなことをしていては到底駄目だということになります。そこで大口の取引先よりはむしろ小口でもいいからたくさんの取引先と商売をしたいと経営方針が変わります。ということは、たくさんの顧客をとらなければいけない。すると営業は、あちこち訪問して回って、一軒一軒顧客を開拓していかなければいけない。飛び込みでもとにかく数を当たれということになります。ところが、父は無口な人です。無口な人が営業職というのはそれだけでもハンデがあります。もっと言うならば、父はこの頃には吃音が強くなっております。どもりです。外へ出て営業するのはどうにもうまくいかない。

新しい商材のポリエチレンが入ってきましたところで、父は、自分が営業に行かずに新たな顧客を開拓するにはどうすればいいかと考えます。そして新戦略を考案します。価格表を作って印刷させ、そしてそれを職業別電話帳を使って顧客になりそうな事業所に片っ端から送りつけるわけです。BtoBのダイレクトメールですね。まだそういう手法が一般的ではない時代に、画期的な営業方法を考えた。これは、購買側からすると非常にありがたい。一方で販売する側からはちょっと危険なことでもあるわけです。どういうことかというと、商売は同じ製品でもできるだけ高く売ったほうが儲かります。ただ、高く売ろうとすると他社との競合が発生する。うまく高く価格を設定するには、なるべく手の内を明かさない方がいいわけです。相手に相場感がないほうが、商売はしやすい。相場がわからなければ、相対で相手がうんというようなところで価格を設定できる。基本的に商売は、相対で価格を決めていくのが、売る側としてはありがたいわけです。ところが買う側としてはそれでは本当にその値段が妥当なのかわかりません。不透明なんですね。けれど、下手に値切って売ってくれないと、困ります。特に手に入りにくい新製品では困るわけですよ。

買う側としては、情報がオープンなほうがありがたい。これは現代のインターネットでも同じことがいえます。インターネット通販がなぜリアルな商店での販売よりも急速に伸びたかといいますと、価格が一目で比較できる、価格が完全にオープンになっている、その状態で消費者が選ぶことができるからでしょう。それがインターネット通販の普及の大きな要因だと思われます。父は同じことをインターネットがない時代に郵便でやったわけです。本来なら売る側の都合で隠しておきたい価格情報を全部オープンにしてしまった。この値段で買ってくれるならうちはいつでも売りますよと、価格表を大阪を中心にバラ撒いた。父がよく話してくれたことには、和歌山からわざわざ買いに来てくれた人までいるということです。和歌山、奈良、兵庫、京都と、大阪だけでなく近県にまで、この価格表を送りつけた。これが当たったんですね。なにしろポリエチレンは新しい商品です。多くの事業者はそれをどこで買えばいいかわからない。うっかり大手の会社に問い合わせると、高い価格をふっかけられる。なにせ販売する側は新商品ですので強気です。それが妥当な値段なのか、相場なのかということは、買う側にはまったくわからない。ところが、そこに父が作った価格表がやってくる。なんだ、こんな値段で買えるんじゃないかと、どんどんお客が増える。このようにして、父の会社は急速にポリエチレン袋販売のシェアを伸ばします。そして父も、苦手な外回り営業に出る必要はなくなって、その価格表で釣り上げた固定顧客の対応だけしていればいいということになる。であっても、父の営業成果というものは非常に大きいわけです。社長の弟というだけではなく、父の社内での評価がぐんぐん上がっていった。このような時代であったというふうに聞いております。