この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

父の縁談

お見合いと言いますと、我々は因習であるとか、政略結婚であるとか、何かそういう仰々しいものを連想します。お見合いの席のマナーでありますとか、釣書の作法でありますとか、そういったものがまとわりついてくるもの、格式あるもの、古めかしいものというイメージがあります。けれども、一時期のお見合いは、もっと気軽なもの、現代の人々がマッチングアプリを利用するのとあまり変わらないものでもあったようです。もちろんその時代のお見合いの中にも、政略結婚的なもの、親が決めた縁談みたいなものも紛れ込んではいたでしょう。けれども、多くの場合は単なる出会い、縁結び、偶然の背中を少し押すような、そういう仕組みであったと考える方がどうもよいのではないかという気がいたします。

現代のマッチングアプリでは、自分自身が登録する、自分自身の意志がまずなければ前へ進みません。昔の見合いはそうではなく、周りの方が縁談を持ち込んでくる形でスタートする。そういう意味では、周りの影響が大きい。本人の意思とはやや無関係なところで話が始まる部分はあったようです。しかし、実際に縁談が、始まってみますと、現在のマッチングアプリと大きく変わることはなかったのではないかという気もいたします。

もちろんこれは、時代によっても違うわけです。見合いに格式とか形式が重んじられるようになったのは、意外にも古い時代ではなくて、世の中が豊かになった1960年代以降のことではないかという気がいたします。このあたりは調べることができれば面白いのではないかと思いますが、調査のしようがないのかもしれません。ともかくも私は、実証的な話ではなく、父の縁談がそうだったから、そんなふうに思うのです。

父は、実はお見合い強者でありまして。若い頃に二十数件の縁談を次から次へと断った実績を持っています。一般に、子どもは親の馴れ初めを知りたがるものです。私と兄も、子どもの頃、親に「どうしてパパとママは結婚したの?」というようなことを、一度ならず尋ねました。そして、「見合いだ」と聞くと、なんとなくがっかりしたのを覚えております。やはりなにか世紀のロマンスみたいなものを期待するわけですよね。その子どもたちのガッカリ感を察知したのか話を盛り上げようとしたのか、父はこの二十数件の縁談の話をするわけです。「向こうの端からずっとこっちの方へ順番に見合いをしていって、一つも気に入ったものがなかった。最後にこっちの端で、ママと巡り合った」というようなことを話すわけです。ちなみに、この新田地区は、北側に大和川という大きな川が流れております。当時は近くに橋もありません。なので、北側とはあまり交渉がない。むらの付き合いは、主に西から南、東ということになります。東の方の近在から順番に縁談をチェックしていき、南の方をまわって、西の端、つまりJRの浅香駅の方まで、次々にことわっていった。気軽にどんどん破談にしていけたのは、現代のマッチングアプリと大差ないように思います。現代でも、登録してメッセージを送っても返信がなかったり、逆にメッセージを無視したり、あるいは会うところまでいっても一回限りで連絡がない、というようなことはいくらでもあるわけです。そして、それを繰り返す人も、いくらでもおります。まあ似たようなものではなかったのかなと思います。

ともかくも、この西の果ての浅香駅の近くに、私たちの母となる人が住んでおりました。その縁談が最後に決まったのだ、というのが父の話です。まあ、そんなにうまくいくわけはないんですよね、考えてみれば。縁談が東から順番に一つずつくるわけはありません。話半分で、かなり盛っているところはあると思います。ただ二十数件の縁談をことわったというのは、あながちウソではないのかもしれません。というのも、戦争がありましたからね。若い男のかなりの部分が、戦争で死んでいます。ですから、男性優位で、少しでも気に入らなければ破談にすることが可能であったのかもしれません。

ともかくも、順番に行って最後が西の端、というのは、仮に本当だとしても偶然に過ぎません。少なくとも、父の側以外の当事者には、そんな認識はなかったはずです。これは確認がとれております。といいますのはこの二人の縁談をまとめた仲人さんが、まだご存命です。もう九十代の年齢ではあるんですが、まだまだ元気です。その彼女に話を聞く機会がありました。この仲人さん、母とは歳の差が六つか七つぐらいでしょうか。母が二十二歳で結婚していますから、当時まだ三十前ぐらいの若い女将さんです。彼女は、市場の片隅で小間物を扱う店をやっていたそうです。この小間物屋のお客さんに娘がいた。親に連れられて度々店先に現れます。聞いてみれば割としっかりした学校──この時代にはもう新制の高等学校ですね──高等学校を卒業して、堺市内にありますメーカーで事務仕事をしている。いい娘さんだということを次第に知るようになります。彼女は、市場で商売をしておりますけれども、元々は新田地区の出です。地縁、というか遠い縁続きの中に、ちょうど年頃の男がいる。私の父親ですね。しっかりした会社に勤めていて、最近稼ぎもいいらしいと、その母親から聞いている。二人を結びつければこれはいい縁になるのではないかと思って、双方の母親に話を持ちかけると、それは良かろうということになる。お見合いを設定するわけですけれども、釣書ですとか一席を設けるとか、そういう堅苦しいことは致しません。日時だけを決めて、男性の方にあらかじめ店の近くまで来させておく。うちの母親の母親──私の祖母にあたる人に、娘さんをいついつ連れて来なさいと指定しておく。この娘さんの様子を、父は市場の片隅から知らぬ顔で見ているわけです。なんだか平安時代の隙見のような話です。

このようにしてどんな人かを観察させておいた上で、どうだと話をする。まああの人ならよさそうだというようなことになりましたので、改めてデートの日を設定する。仲人さんによりますと、何でも二人はミナミの方に映画を見に行ったんだそうです。どんな映画だったのかよくわかりません。ちなみに、私が子どもの頃、母に「若い頃、二人で映画なんか見に行ったの?」と聞くと、母の方は「パパは時代劇か寅さんぐらいしか見ないし、私は洋画を見たかった。全然趣味が合わないから、一緒に映画を見に行ったことはない」と言っておりました。けれども、少なくとも初回のデートは、映画館であったようです。こんなふうに、お見合いといっても格式も何もありません。ただ単に若い二人を出会わせて、後はデートに行って、気があったらそっから話を進めてくれ、と任せるわけです。現代のマッチングアプリとあまり変わらないと思います。

これは、たまたまそういう時代だったということでもあるのでしょう。戦争前は、家長の権力が絶対で、その許可がなければ何事もできない。その慣習は、戦争が終わって急速に変わるわけではありません。影響は長く残ります。しかしまた、敗戦を契機として、個人を単位とした新憲法が発布される。その中で、旧来のものは駄目だ、新しい社会をつくっていかなければいけない、という機運が社会に満ちてくる。なにしろ日本は戦争で負けておりますから、大人の世代は全部ひっくるめて責任があるわけです。ですから、若い人たちが新しい社会をつくっていこうという動きを押しとどめるだけの説得力あることが何も言えなかった。実際、農村でもこの時期に青年たちの活動が急速に広がっていきます。そのような「民主化の春」のような雰囲気が、戦後十年ぐらいは続いたようです。その空気の中で、お見合いもかなりカジュアルに行われたのではないかと想像しております。

二人の見合いが何月ぐらいに行われたのかは知りませんが、何ヶ月かの交際期間を経て、プロポーズとなります。このプロポーズに関しましても、私たちが子どもの頃には母から笑い話の一つとしてよく聞かされました。その頃、父は堺にある自宅(先に述べましたように家一軒分を飲み潰した後に残ったお金で家を一軒建てております)に住んでおります。家族で住めるくらいの立派な家ですけれども、そこに一人住まいをしている。そこから松屋町筋にある会社まで、毎日スクーターで通勤をしている。そのスクーターでもって、ある夕暮れ、浅香駅の近くにありました母の住まいまでいきなり乗り付けてきました。そして、母に向かって、「これ」と一言言って、指環を差し出したんだそうです。あっけにとられてる母を残して、父はスクーターで去っていった。「なんなんだ、あれは?」という印象のプロポーズであったというふうに聞いております。