この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

父の結婚

父と母は、結局のところ父が八十八で亡くなるまで、半世紀以上も添い遂げたわけです。なかなか立派なものです。その二人が出会ったときは、もちろんまだとても若かった。二人とも二十代です。そして時代も若かった。もちろん戦争に負けた──敗戦という非常に大きな出来事があって、まだ十年少ししかたたない時代でもあります。傷口も癒えきってはいません。けれど、言葉を変えれば、戦争によって古いものが焼き尽くされ、新しいものをつくっていく機運が高まっていた時代だともいえるでしょう。そのような中で父は母のどのようなところに惹かれたのか。どうやら父は、母の古いものにとらわれないところ、自由でのびのびしたところに惹かれたようです。

父が育ったのは農村です。農村は、元来が古くからあるものを引き継いでいく姿勢をベースにしております。明治以来の家父長制ということもありましたけれども、農業というものがそういうものなんだと思います。そういうところに育って、そして時代遅れの住み込み奉公という形で商売人としてのキャリアを始めた。従って、父の中には古いものに対する不満が大きく息づいていたのでしょう。そしてそこには、甘やかされて育った末っ子ということも関係しているのかもしれません。ちなみに母も末っ子でした。海軍軍人の家に生まれた四人兄妹の末っ子でした。軍人の家ですからそれなりに教育は厳しかったはずです。しかし、海軍は陸軍とは違い、モダンである。海外の情報をつかんでいる関係上、開明的である。そういうモダンな雰囲気も、母は受け継いでいたようです。

母が初めて父の家に参りましたときのエピソードです。縁談があった時点で父はもうすでに後の新居となる新築なったばかりの一軒家に住んでおりました。最初のデートのあと、どのくらいの付き合いがあったのかは知りませんが、やがて母は、その家を訪問する。この家に芝生があった。これもまた父の一風変わったところであったわけですね。なぜなら家を一軒建てるということになりますと、当時の田舎ですから、当然庭が付随する。百姓屋の場合、庭が作業場にもなりますですので、踏み固めた地面からなる広いスペースを空けたものが庭となる。百姓でなければ、庭には築山をつくったり木を植えたりするのが普通でしょう。しかし、父の場合、どちらにもせず、芝生を植えていた。芝生の庭というのは、アメリカ風の家のつくりです。アメリカでは、芝生をきれいにしておくのがハウスメンテナンスの基本になるのだそうです。日本ではふつう、なかなかあるものではなかった。その芝生を見ると、母は靴も靴下も脱いで裸足になり、その芝生の上を歩いて気持ちがいいと言った。そしてあろうことかその芝生の上にゴロンと寝っ転がったそうです。それを見て、父は「ああ、この人なら」と思ったんだそうです。二十数件の縁談を断り続けた父ですけれども、母の突拍子もない行動には何か感じるものがあったようです。

プロポーズに関しましては、先にも申しましたように指輪を突然渡したという愛想もくそもない話ですが、母がそのプロポーズに応える──つまり結婚を承諾しようと思ったのは、ある言葉がきっかけなんだそうです。それは、母が尋ねた言葉に父が答えたものです。あるとき、母は「私が歳をとって歩けなくなったらどうする?」と父に尋ねたんだそうです。母はもともと病弱な人でした。小学生の頃に何度も入院を繰り返し、あるときなどはもう医者に見放されるほどの重病にもかかったそうです。そういうことがあったので、自分自身の健康に自信がなかったのでしょう。だから、父に「私が歩けなくなったらどうする?」と尋ねた。そうすると父は、「負っていってやる」と答えのだそうです。それを聞いて母は「この人なら」と思った。という話です。

このようにして二人が結婚するわけですけれども、昔のことですから、結婚した嫁は非常にいい加減に扱われた。嫁を取ったら、取ったものはもう家のものだみたいな感覚がどうもあったようです。手続きだとかそういうことはもうほったらかしになっていた。母としては、結婚したらもう籍が入っているものだと思っていたようですが、一ヶ月ほどたって尋ねてみたところ、まだ籍は入っていない。いつ入れてくれるんだと言っても言葉を濁すばかり。仕方がないから自分で書類を整えて役所に行ったそうです。そういういい加減なことが通ったのが、この時代の結婚であったのだろうと思います。