この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

母の一族のこと

母親の若い頃のことを記録したいと思うんですが。これに際して私の中に少し後悔があります。私の母は四人きょうだいです。つまり、私から見て母方には一人の伯父と二人の伯母がいました。母を含めて男一人、女三人のきょうだいでした。伯母の一人は、私が二十代の頃に亡くなっております。もうひとりの伯母は、比較的最近まで存命でしたが、晩年は、認知症が入って施設で。過ごさざるを得ませんでした。
その伯母が、まだ自宅で元気に生活をしていた頃、よく私に言ったものです。
「私らきょうだいの歴史をまとめたらものすご面白いやろうね。大河ドラマになるんちゃうか」
そんなふうに。何度も話した伯母のことを私はよく覚えております。
その記録をする人がいるとしたら、それは私をおいていないだろうなと思っていました。といいますのも、私は若い頃、何冊か自伝の編集に関わったことがありました。自分史の編纂に興味を持ち、そして時には仕事として、編集者として関わってきたのです。ですので、自分にはそれができる、自分なら、伯父、伯母、母親含めてのきょうだい、あるいはその一つ上の世代である祖父、祖母の歴史をひとまとめに記録しておくことができるだろうと思っておりました。その時点で長兄である伯父、長女である伯母、そして三女である母の三人のきょうだいが生き残っていたわけですから、順次聞き取りをすれば、かなりのところまで。正確な記録ができるだろうと思いました。
しかし、時の流れは思った以上に早いもので、私がそんなふうに思ったときから、ふと気がつくと、忙しさの中で取り紛れて何もしていないうちに、伯父が亡くなりました。なにひとつ手を付けていないうちに伯父はいなくなってしまいました。もちろんそれ以前に、伯父からは昔のことをちょくちょくとは聞いておりましたので、しっかりまとめて聞き書きをすれば非常に面白い話になるだろうなということは感じておりました。それを果たせないまま、伯父に永遠の別れを告げないといけないというのは、ずいぶんと残念なことでした。
そういうことがありましたから。私はこれはなんとしてでも残された人々の記録は取らねばならないだろうと思いました。当時、私の仕事はさほど忙しくなかったので、伯父と長年連れ添った伯母のところに通って、亡くなった伯父のことを尋ねれば、しっかりと記録できるんじゃないかと思いました。伯父から直接は聞けなくとも、伯母から相当詳しい話は聞けそうだと思ったわけです。
そのことを母に相談した時に、意外にも母はそれに強く反対いたしました。順番が違う、というのです。このあたり、私はお年寄り、あるいは当事者の感覚をきちんと読みきれていなかったのだなぁと思うわけです。私の感覚では、記録の目的はなによりも情報の保存です。あるいは、伯母が言いましたように「面白い話になるだろう」という興味です。さらには私自身の関心です。ところが、当人たちにとってはそうではない。長く生きてきた人にとってその歴史を語るということは、それは一つの足跡を残すということであり、名誉にかかわることなんですね。尊厳にかかわることでもある。特にそれを書物の形で残そうというのは、それにふさわしい人でなければならない。そして、ふさわしい人は、昔の感覚から言えば長幼の序、というものが優先されるのですね。だから、「順番がちがう」というのです。
その言葉に私は逡巡しました。この言葉がなければ、私はもっと気軽に動けたかもしれません。私の動きは鈍りました。それでも私は、伯父の妻、つまり私からみての叔母に、伯父のことを教えてくれないか、語ってくれないかと頼みました。最初、叔母は快諾してくれました。しかし、しばらくして、やっぱりそれはできないと断りの言葉をもらいました。思い出そうとすると辛くて、とても耐えられそうにない、というのですね。これも予想外のことでした。そういう面でも、私は当事者の感覚をつかみきれていなかったわけです。人間は、そんなふうに、感情を抜きにしては語れないのだなということを改めて思いました。
そうこうするうちに、母の姉である伯母が施設に入ることになりました。これは伯母の夫、つまり叔父が亡くなったことをきっかけとしたものです。それまででも伯母は高齢のせいで多少の認知症の気配があったわけですが、体の弱ってきた叔父と伯母が二人で生活する中でお互いの弱ったところを支えあうような形で、二人で自立した生活をしていたわけです。しかし叔父が亡くなったことによって気が動転したせいでしょうか、伯母の認知症はさらに悪化したように思われました。その伯母をそのまま一人で生活させておくわけにはいかない、ということで、伯母の一族は苦渋の決断をし、伯母は施設に入ることになったのです。
この施設に、私は何度か見舞いに行きました。認知症といっても、古い話は結構覚えてるものなんですね。ですので、最初に見舞いに行ったときに、随分と昔のことをはっきりと話してくれました。これは、タイミングを失った伯母から昔の話を聞き出す機会だと思いました。ただ、このとき、私は何の準備もしていませんでした。そこで、次回には録音できるように機材を整えていきました。そのつもりでしたが、ちょっと準備が悪かったのか、録音データがうまく残らなかったのですね。そして、三度目に行ったときには、伯母はかたくなに昔のことをしゃべるのを拒みました。昔のことだけではありません。なにを話しても話題をそらそうとする。心を開くのを拒むような様子がありました。「そんなん、もうええやん」と、強いていうなら、あらゆることから目を逸らそうとしているような姿勢でした。私はそのとき、認知症と呼ばれているものが決して常に同じ状態ではないのだということを知りました。
長年連れ添った伴侶が死んでしまったショックで、おそらく認知症は一時的にはかなり悪化していたのでしょう。しかし施設に入り、療養をし、休養を十分にとり、現状の認識が少しずつ整理されていく中で、認知症そのものは大きく改善していったのではないでしょうか。しかし認知症が改善すると、今度は施設に閉じ込められている自分、さらに高齢者としての介護を受けている自分、人の世話にならなければ生きていけない自分、料理一つ作れない自分、作ることを許されていない状況、まるで幼児のように手遊びだとか愚にもつかないことをさせられている自分、そういう現状に対する認識が生まれてきます。その中で、おそらく伯母は絶望し、そして恥じ入る中で、もう何を話すことも不適切であると感じられるようになったのではないかと思います。
このような経緯から私は、二人の重要な登場人物から話を聞く機会を失いました。残されたのは母だけです。ただ、この母に関しては、実はあまりしっかりした情報源にならない部分があります。「信頼できない語り手」という表現がありますが、母はある意味非常に信頼できない語り手なのです。
というのも母は、嫌な記憶を書き換えるという、とんでもない技をもっております。実はこれは、多少とも私も受け継いでいます。なのでよくわかるのですが、人間、嫌な記憶を書き換えると、非常に生きやすいのですね。この技は、本人が生きていく上では非常に役立つのです。しかし、残念ながら記録を残す上ではほとんど役に立ちません。なぜ母が「信頼できない語り手」であるかわかるのかというと、伯父や伯母から聞いた断片的な話は私の中に残っているのですが、それらと母の話とを比べると、どうしても辻褄が合わないところがいくつも出てきます。
ということで、私は信用すべきインフォーマントを全て失っています。そして、あやふやな母の話を頼りに進めていく部分が多くなってしまいます。それでも、きちんとした記録はとらなかったけれども、私の中に記憶として残る伯父や伯母の話を頼りに、母の話も織り交ぜて、母の一族のことを書いていこうと思います。あやふやな記憶ではありますが、それらを呼び起こして、ここから先、いくつかの記事を書き綴っていきたいと思います。