この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

戦時下の舞鶴にて

このブログを書いていて、うろ覚えだった舞鶴の火薬工廠について、少しWebを検索してみました。

maipress.co.jp

『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』 関本さん(大波上)が自費出版、市内の書店に【舞鶴】 | 舞鶴の新鮮な情報配信 Maipress-マイプレス- 舞鶴市民新聞

 

www.ritsumei.ac.jp

<懐かしの立命館>1945年「舞鶴第三火薬廠」勤労動員の記憶 ―K・Sさんからの聞き取り調査― | | 立命館あの日あの時 | 立命館 史資料センター準備室(旧・立命館百年史編纂室) | 立命館大学

 

syasin.biz

舞鶴旧海軍第三火薬廠(ロシア病院) - 爆薬製造していた軍事施設跡|古都コトきょーと

 

きちんと調べればもっと出てくるでしょうし、Webの情報よりも上記に紹介された書物をはじめ、郷土史家の研究を参照すればもっときちんとしたことがわかるはずです。ただ、今回はそこまでのつもりはありません。当面は、家族の歴史の中から、私が記憶している範囲のことを記しておこうというのがこのシリーズの目的だからです。

 

母が生まれた地である東京の豊島区から舞鶴に引っ越したのは、まだ小学校に上がる前のことだったといいます。舞鶴の火薬廠が大規模な拡大をはじめたのが昭和14年のことだそうです。だとすれば、ちょうどそのタイミングで祖父の一家は海軍省詰めの東京勤務から舞鶴へと転勤になっています。祖父は、火薬廠のプロジェクトに最初から参画していたようです。

舞鶴に引っ越してから、母は幼稚園に通ったのだそうです。キリスト教系の幼稚園で、食事の前にお祈りを唱えてアーメンと言ったことを、80年ほども経過したいまでも、母はしっかりと覚えております。都会ではともかくも、当時幼稚園はそれほど一般的ではなかったと思われます。ですから、やはり母はそれなりに裕福な家庭の子どもとして育てられたのでしょう。

伯母は、二人とも、東舞鶴にある小学校に通ったようです。公立の地元の小学校で、特別なものでもなんでもなかったようです(ちなみに、後に伯父の妻となる義理の伯母も、同じ時期に同じ小学校に通っていたとのことです)。祖父の一家は東舞鶴から一里ほどはなれた地区に立派な官舎が与えられ、その隣には寮がありました。祖父はこの寮の舎監をしていたのです。この寮が昭和14年頃に祖父の一家が舞鶴に引っ越した当時からあったのかどうか、わかりません。母は覚えていません。舞鶴赴任後は市内での引っ越しはしなかったようですから、官舎は赴任した当時からあったのでしょう。寮は火薬廠の完成とともにできたのかもしれません。

母は随分と病弱な子供であったと聞いています。何度も大病をして病院に入院したそうです。海軍軍人の家族ですから、海軍病院にも入院しました。軍医さんが大勢集まって治療してくれたと、母は覚えております。そんなことから考えても、祖父はずいぶんと重用されていたようです。一介の下士官にしては、扱いが手厚すぎるような気がします。こうして、祖父の実像が私にどうにもはよくわからなくなってくるわけです。

何度も繰り返す入退院の中で、母は、調子のいいときには病室で本を読んでいたそうです。ただし、限られた本しかありませんから、何度も何度も同じものを読みます。すると祖父は、その母の様子に感心して、「この子は偉い。何度も何度も読み返すじゃないか」と褒めたそうです。しかし祖母の方は、「この子は頭が悪いから何回も読まなければわからない」と言ったという笑い話も聞かされました。そんなふうに決して楽ではなかったはずの舞鶴時代ですが、その思い出は母にとって非常に牧歌的なものであったようです。現実にはそこは軍港で、しかも秘密の火薬廠の付属施設でした。ある意味、戦争のどまんなかです。けれど、母にとってはそこはたくさんのお姉さん達と暮らす故郷であったわけです。

この寮のあったところを、私は若い頃に母に伴われて訪れたことがあります。むらから斜面を上っていった小高い尾根の途中を切り開いた場所で、いまとなってはこんなところに何十人もの人が寝泊まりする施設があったとはとても思えないのですが、そこに間違いがないと母は言っておりました。戦争中でも、農業生産のための田畑を潰すことはできなかったのでしょう。火薬廠のために周囲の土地を思うままに接収した軍にとっても、やはり食料供給を減らすことは憚られたのでしょう。ですから、わざわざ山林を切り開いて施設をつくったものだと思われます。少なくとも居住施設に関しては、そのようにしたのではないでしょうか。

この丘の上の寮の周辺で、少女だった母は花を摘んだり山菜を取ったりしていたようです。また、畑仕事も覚えたようです。後になって私が子どもの頃、祖父の家を訪れると、祖父はよくミツバチの巣を世話しておりました。庭にはたくさんの花、蘭や菊のようなさまざまな植物が豊かに並べられておりました。軍艦に乗って外国に何度も出かけたことも影響したのでしょう、祖父は珍しい植物に関心が高かったようです。そしてその時代の人の倣いとして、そういうものを買い求めるよりは自分で手を下してやってみるということを常としていたようです。たとえばいまでは普通に八百屋で売っているニガウリも、当時は沖縄ぐらいでしか栽培がなかったものをわざわざ取り寄せて栽培していたようです(その影響で、母はいまでもニガウリのことを当時の呼び名である「レイシ」という名で呼びます)。この舞鶴の寮の周辺でも、自給自足的な畑は赴任すると同時にやっていたようです。養蜂もこの頃からやっていました。そういった。自然に密着した暮らしが工廠に出勤しない時には常に行われていて、その中で母はのびのびと育ったようです。体が弱かったので入院していない時には自宅で療養することもあったようで、だから学校にそれほど真面目に通ったこともないようです。当時の小学校ですから、それほど出席に厳しくなかったのかもしれません。母の話を聞くと、寮の周辺で野山に遊びに行ったことばかりが出てきます。春にはイタドリの茎を折ってその酸っぱい汁を吸って歩くとか、草花をとって花輪を作ったとか、そういう気ままな暮らしを母はこの時代に堪能しました。

舞鶴には戦争が終わった数年後まで含めて、7、8年もいたのでしょう。その間に戦争の状況はどんどん悪くなっていきます。母はまるでそんなことに無関心で日々を過ごしていたようですが、伯母の話によりますと、この頃の戦況は、日々肝を冷やすようなものであったそうです。何しろ軍港ですから、攻撃の対象になります。空襲がある。伯母は小学校卒業後、女学校に進学しておりました。戦争が激しくなると、この女学校の生徒も勤労奉仕ということで、落下傘の縫製に工場に行くことになります。伯母はそんな話もしてくれました。

この女学校、そして勤労奉仕先の工場は、市の中心部にあります。官舎は先ほど言いましたように市街地から遠く離れたむらのさらに小高い丘の上にあります。歩いて小一時間もかかったのではないかと思います。空襲警報があって、今日は早く帰れと言われて急いで家に帰る途中に、空襲が始まったそうです。振り返ると艦載機の戦闘機が自分の方にめがけて急降下してくる。飛行機に乗っている。操縦士の顔がはっきり見えたそうです。機銃掃射の音が聞こえるなか、夢中で走って帰ったというようなことを話してくれたのを覚えております。クラスメイトで亡くなった人もいたそうです。戦争が日常に影を落とす、そんな時代でした。