この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

祖父が結婚するまでのこと

母の若い頃のことや母のきょうだいの歴史を語ろうと思いますと、やはり母の父親、つまり私の祖父のことから始めるのが最も適当ではないかと思います。祖父は、長野県、つまり信州信濃の山奥で牛飼いを営んでいた一家の生まれと聞いております。その一家の中でどのような位置付けにあったのかとか、あるいはその一家がどんな一家であったのかということは、私は何も聞いておりません。

ずっと後になりまして、私の母と伯母を連れて、私の兄が祖父の故郷を訪れたことがありました。高齢者となったきょうだいとともに一族のルーツを辿る旅だったのでしょう。そのときのことは、兄からも、母からも聞きました。最初は市内のなんという地名の場所かもわからず、市役所に行って住宅地図を見せてもらったそうです。すると、山の中のむらに母親の旧姓と同じ姓をもつ家が集中しているところがあった。集落内がほとんど同じ姓で、二軒か三軒だけ、明らかによそから来たとわかる苗字があった。そこに違いないとあたりをつけて、さっそくその山の中のむらに入っていきますと、どうも見覚えがある顔が歩いている。祖父にそっくりな──そっくりとまではいかなくても面影を残したような──人がいる。尋ねてみると、やはり親戚筋の人で、祖父のことをよく覚えていたそうです。ということで、出身のむらまではわかっているわけです。そこで聞き込みをすれば、もっと詳しいことまでわかったのだと思うのですけれども、決して歴史的な興味で訪れたわけではなく、母と伯母が祖父の昔を懐かしむのがテーマであったので、それ以上の詳しいことはたいして調べなかったのでしょう。少なくとも私は何も聞いておりません。

ともかくも、牛飼いであったことは母からよく聞いておりました。牛飼いですから、祖父は子どもの頃からよく牛乳を飲んでいたそうです。そのせいか、祖父は非常に頑健な身体の持ち主でした。昔の人にしては体格がよかった。私の父が昔にすればずいぶん背の高い男であったという話は別のところでしましたが、その父とこの母方の祖父は、私の記憶ではほぼ身長が変わりませんでした。父は、現在の基準からいえばごく平均的な若者の身長と変わりません。しかし、栄養状態の悪い戦争前に育ったあの世代では、周囲よりも頭一つ抜けていた。ということは、祖父は父よりもさらに一世代昔の人ですから、これはもう相当な大男であったのであろうと思われます。明治生まれですから、雲をつくような男といってもよかったのではないかと思われます。私の記憶でも、とにかく手足が長く、背中の大きな人でした。

この体格に加え、祖父は頭もよかったのでしょう。あるいは志が高かかったのでしょうか。山奥のむらに止まることをよしとせず、軍人を志します。当時、山の中の次男坊、三男坊が軍人になるといえば、たいていは陸軍に決まっていたようです。しかし、祖父は海への憧れをもっていたのでしょう、海軍に志願いたしました。海軍に入って、頭の良さを見込まれたのか、砲兵に配属され、さらに砲術学校へと進みました。昔の軍隊では、一般に職業軍人は兵卒から下士官へというのが通常の出世コースです。下士官にのぼりつめて何か功績があるとか、退役の時に特別に目をかけてもらえるとか、運が良ければ士官の中でいちばん下っ端である尉官、すなわち少尉、中尉なんかへの昇進も可能ではあったようですが、基本的には下士官、つまり伍長、曹長といったのが関の山です。それでは将校はどんなところから供給されるかといいますと、陸軍学校や海軍兵学校です。陸軍学校や海軍兵学校を卒業しますと、最初から少尉に任官されるわけです。この尉官から出世しますと、佐官すなわち少佐、中佐、大佐というところまでいくわけです。さらに出世しますと将官すなわち大将、中将、少将といったところになるわけですが、そこまでのぼり詰める人はごくわずかで、たいていは尉官、佐官あたりで退役をするわけですね。そして、海軍兵学校とは別に、砲術学校というのがあったようです。この砲術学校は、専門的な軍人を養成するということで、士官を養成するコースと下士官を養成するコースがあったようです。祖父はこの学校に行き、若くして下士官に任官します。一般の水兵ではなく下士官として一つランクが上のところで軍人としてのキャリアを積み上げていったわけです。

軍艦には必ず大砲がありますから、砲兵の仕事はこの軍艦に乗って大砲を管理運用することです。軍艦は平時には世界を巡りますから、祖父はずいぶんと外国にも行ったようです。ただ、軍艦には必ず母港があります。平時には軍艦はすべて母港に配属されます。当時の海軍は鎮守府という制度をとっておりまして、全国にいくつかの鎮守府と呼ばれる軍事拠点がありました。軍艦は、これらいずれかの軍事拠点に所属するわけです。祖父が乗船した軍艦は、舞鶴鎮守府に配属されていたようです。そして、舞鶴鎮守府に配属されておりましたときに、祖父は地元の酒屋の娘と結婚することになります。この酒屋の娘が、私の祖母にあたるわけですね。

祖父のことを話すとなるとと、当然祖母のことも話さなければいけないのです。けれども、祖母の方に関しましても、実は私はきちんとしたことを聞く機会を失ってしまいました。切れ切れには聞いてたのですけれども、もうちょっときっちり聞いておけばよかったなぁという後悔が残っています。祖母は祖父が亡くなったあと──数ヶ月の間に過ぎませんけれど──私の家に滞在しておりました。そのときにいくらでも話をする機会があったのです。もっといろんなこと聞けばよかったなと、いまになれば思います。けれども当時はそんなことは思いもよらなかったのですね。私は大学生でしたから聞こうと思えばずいぶんいろんなことが聞けたし、聞き出したものはきっと記憶にも残ったはずなのです。

ともかくも、祖母の若い頃のことで私が知っているのは、現在の舞鶴市に属する由良川という川を遡ったあたりにあるとある集落の出身だということだけです。この場所は私も後に知り合いが住んでいたこともありまして何度か訪れております。現在ではずいぶん小さな集落です。けれども明治時代には旧村の役場もあったところらしく、多少はその辺りの中心地でもあったようです。ですので、農家ばかりではなく、いくつか商店や小さな事業を営む人が住んでおりました。そこで造り酒屋を営んでいたのがどうも祖母の出身の家だということであるようです。

この辺りもかなりあやふやに聞いておりますので随分と事実と違うことがあるのかもしれませんけれども、この造り酒屋の跡継ぎがどうも酒屋の経営には失敗したようです。これは無理もないことで、実際、明治時代に田舎の方で小規模に営まれていた造り酒屋は徐々に徐々に淘汰され、昭和にかけて大手の酒造会社へと変わっていきます。かって造り酒屋をやっていたところでも酒の小売に身を転じていくところが少なくなかったわけです。当然、時代の流れの中で造り酒屋の事業は変わっていかざるを得なかったんだと思います。

祖母には何人かのきょうだいがおりましたけれど、そのうちの二人は、その由良川をさらに遡ったあたり、現在の福知山市に属する集落の方に嫁ぎます。祖母の方は若い頃はお針を習ったりなんだりとそれなりの花嫁修行をしていたようです。そして海軍さんの方から縁談があって、軍人の嫁として嫁ぐことになった。このようにして、私の祖父と祖母の新たな結婚生活が。舞鶴という町を拠点にして始まったというように聞いております。