この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

その1 父の若い頃

次章に向けて

父と母が結婚後1年余りして兄が生まれ、そのさらに1年余り後に私が生まれます。父の人生は、もちろんここからのほうが長いわけで、もっともっとここから先にいろいろなことがあります。父の話をここで終わるのはまだまだ早いわけです。続きとしてそれを語っ…

父の結婚

父と母は、結局のところ父が八十八で亡くなるまで、半世紀以上も添い遂げたわけです。なかなか立派なものです。その二人が出会ったときは、もちろんまだとても若かった。二人とも二十代です。そして時代も若かった。もちろん戦争に負けた──敗戦という非常に…

父の縁談

お見合いと言いますと、我々は因習であるとか、政略結婚であるとか、何かそういう仰々しいものを連想します。お見合いの席のマナーでありますとか、釣書の作法でありますとか、そういったものがまとわりついてくるもの、格式あるもの、古めかしいものという…

ポリエチレン袋販売の黎明期

プラスチック製品は基本的に戦後のものです。戦争前から合成樹脂は研究され、日本国内でも多少は生産されてはいたわけですけれども、これらが実際に製品に利用されるようになったのは、第二次世界対戦中、アメリカとイギリスでのことだったそうです。 プラス…

家一軒分を飲んでしまった話

昭和の頃の男の遊びといいますと、飲む、打つ、買うの三つということになっております。父は、私が知っております限りにおいては、飲む──酒を飲むことはずいぶんとやっておりました。晩年に至るまで晩酌は欠かさなかった。打つ──つまり博打に関しては、まっ…

包装用品販売業の成長

私が子どもの頃、家には、「これはいったい何に使うんだ?」「なんでこんなものがこの家にあるんだ?」みたいなものがちょくちょくとありました。それは、父の会社の取引先が倒産したときに、差し押さえで持ち帰った品物だったんですね。企業が倒産すると、…

父の教育

現代では賃労働つまり企業に勤務することで給与をもらう、そしてそれによって生活するライフスタイルが一般的なものとなっています。昭和の言い方ではサラリーマンですね。そういう暮らし方が標準になっています。もちろん、現代でも賃労働以外で生きてる人…

オート三輪の運転手

運転免許は、いまでは厳格に管理されております。けれども、自動車の普及が始まった頃にはかなりいい加減なものだったようです。江戸川乱歩の怪人二十面相のシリーズを読んでおりますと、助手の小林少年が登場しますが、彼は免許を持ってないのに運転をする…

百姓から商売人へ

飴をつくる朝鮮人業者に薪を運ぶ仕事をしはじめた父です。この仕事、事業としては次兄のもので、父は単なる使い走りです。それがどういうふうに始まったのか、想像ですけれども、おそらく飴の原料となる米を闇で農村に買いつけに来た飴屋が、ついでに薪はな…

農業から薪の販売へ

戦争が終わる前のことか戦争が終わってからのことか、ちょっとはっきりはしないのですけれど、父が農業をやってた頃、肥汲みが仕事のうちだったと話してくれたことがあります。江戸時代、都市部で出てくる屎尿を汲み取って近郊農業が行われていたのはよく言…

戦時中の暮らし

私の父は昭和6年の生まれですから。ざっと計算しますと、小学校を卒業したのが昭和19年の4月となりましょうか。昭和19年というと、戦争もかなり終盤に近づいてきまして、空襲なんかもされるようになっていた頃ですね。けっこう大変な時代です。当時の教育課…

父の子ども時代

私の父が小学校の頃、あるいはそれ以前の幼児期のことについて、私はほとんど知りません。父もあまり喋らなかったと思います。わずかに語ってくれたなかで最も古いものは、おそらく小学校の低学年の頃のことだと思うんですけれども、年上の子どもに連れられ…

父が生まれた頃の故郷

父は七人だか八人だからのきょうだいの末っ子として生まれました。父の父親がどんな人だったのか、私にはよくわかりません。というのも、父の父親つまり私の祖父は、父が小学生のときに死んでいるからです。その後は歳の離れた長兄と次兄が親代わりとして父…

移住者の末裔

私の父は河内の百姓の家の生まれでした。河内というのがどこまで正確なのかということなんですが、大和川という川が現在、堺市と大阪市を分けております。この大和川、江戸時代、1700年代に付け替え工事で今の流路になりました。これ以後、大和川より南側が…