この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

祖父と火薬

実のところ私は祖父のことはよく知らないのだなあと、最近になってよく思います。もちろん、それほどゆっくりと話を聞く機会がなかったこともあります。祖父は私が大学生の頃に死にました。特に晩年は病の床についておりましたから、私が祖父のことを覚えているのは中学生の頃より前なのです。けれど、それ以上に、私は祖父のことを知らないのだと、最近になってよく感じるのです。それは、私が直接会って話した祖父のイメージと、祖父が担っていた仕事の関係がどうも結びつかないからなのです。

祖父は軍人でした。砲兵です。いわば技術職です。しかし私が知っている祖父は、専ら寮の舎監という仕事をこなしておりました。これは私がまだ幼児の頃、すぐ近くに住んでいた頃も、そうでした。ある企業の確か3階建てぐらいの鉄筋コンクリートの社宅の管理責任者でした。その寮には若い人たちがたくさん住んでおりましたが、祖父はその建物のすぐ脇に一軒家をあてがわれて家族と住んでいました。母によりますと、その社宅に来てからは祖父はほとんど会社に出ることもなく、ただ寮とそれから社交的な仕事、たとえば町内の行事や自治会の世話、市役所との交渉のようなことばかりやっていたそうです。市長を中心としたサークルがあって月に一回の文化的な集まりに出るだとか、そういうことだけを日常としていたそうです。実際、私も祖父が地域の子ども会の行事でサンタクロースの扮装で子どもたちにお菓子を配っていた姿をうっすらと覚えております。それが祖父の仕事でした。

その会社に勤める前は軍人でした。この軍人の時代にも寮の舎監をしていたのだと母は言います。舞鶴に海軍の寮があった。母を含めた家族が住む一軒家の官舎のすぐ脇で、多くの寮生たちが生活していたというのです。奇妙な話です。新鋭の巡洋艦鳥海に砲手として乗り組み、戦争直前には海軍省で仕事をしていた人物が、なぜ舞鶴のような田舎で寮の舎監をやっていたのでしょう。普通に考えますと、これは左遷でしょう。しかしその寮があった場所というのが、実はかなり謎めいた土地なのです。

これは私が舞鶴の隣の福知山市に住んでいた頃に知ったことです。舞鶴はもともと鎮守府があった軍港ですから、その地形図さえ公表されないぐらいの秘密に覆われた街でした。その秘密に覆われた街のさらに山間部に、巨大な火薬工廠がつくられていたというのです。この火薬工廠に関することはすべてが絶対に秘密ということで、まず工廠を造るための敷地に住んでいた住民たちが強制立ち退きにあいました。強制立ち退きにあった事実さえ語ることが許されていなかったのだそうです。戦争後その工廠はは徹底的に破壊され、資料さえ残らないような形で隠蔽されたと、郷土史家の研究で明らかになっているそうです。現在は、ところどころ残されたコンクリートの構造物に名残があるようですけれども、基本的にはどんな規模で何をやっていたのかがよくわかっていない。もちろん火薬工廠ですから、火薬をつくっていたのは間違いないのですが、その細かな実態は、謎に包まれているんだそうです。

祖父が、寮長をしておりました寮は、実はこの秘密の舞鶴火薬工廠に勤務する人々の寮でした。工場で働く労働者の寮です。その労働者の多くは、北陸の方からやってきた女性であったと聞いております。またそれらの人々は海軍の直接の雇用ではなく下請け企業が送り込んでいたのではないかというふうにも聞いております。そして母の記憶によりますと、祖父はこの海軍の寮の舎監をしておりました頃には、時々は工場の方に出勤していたそうです。毎日ではないものの、「今日は工場に行ってくる」というような形で、ちょくちょくと顔を出していたようなのです。

このようなことを考え合わせますと、どうも祖父は砲術の専門家としてこの工廠で必要とされ、ただし常に必要とされるわけではなかったようです。そのような役割をもつ専門職として舞鶴に配属された。常に必要なわけではないから常の職務としては寮の差配をする。そういう任務であったのではないかと想像します。舞鶴は祖母の故郷でもあります。そういう意味で適任とされたのではないかと想像するのです。

もちろんここには何らかの証拠があるわけではありません。前後の状況を眺めての想像に過ぎないわけです。けれども、そうでなければ、辻褄の合わないことがいくつもあります。たとえば、戦争が終わって祖父はすぐにある民間企業に拾われて、その企業の工場がありました新潟へと転勤するわけですが、この民間企業というのが、後に自衛隊の火薬の補給を一手に請け負う企業へと成長した化学系の企業でした。この企業の扱う主力製品は、戦後急成長を遂げましたプラスチックのなかで最初に製品化されたセロハンでした。このセロハンの製造工程が、火薬の製造工程と非常に近似しているのだそうです。ですので、火薬工廠に勤めていた祖父とこの企業の間で繋がりがあるのはある意味当然といえば当然なわけです。火薬を通じた何かがある。技術的なノウハウであるとか、あるいは原料調達についての人脈であるとか、何かはわかりません。わかりませんが、セロハンや火薬の製造にとって必要不可欠な何かを祖父が押さえていたのではないかとも想像されるのです。そうとでも思わなければ、軍人あがりの単なる寮の管理人が、なぜその企業の社長とも親しく付き合い、またその企業所在地の市長をはじめとする有力者たちと交友関係が築けたのか、そういう謎に説明がつかないのです。新潟に赴任したときも、それから堺の寮の脇の社宅にいたときも、十分以上に広く瀟洒な家をあてがわれていたと聞いています。どうも祖父は、それだけの重要人物であったようなのです。そして、その根っこには、秘密の舞鶴火薬工廠が何らかの役割を果たしていたのに違いないと、私は思うのです。