この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

戦時下の舞鶴にて

このブログを書いていて、うろ覚えだった舞鶴の火薬工廠について、少しWebを検索してみました。

maipress.co.jp

『住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠』 関本さん(大波上)が自費出版、市内の書店に【舞鶴】 | 舞鶴の新鮮な情報配信 Maipress-マイプレス- 舞鶴市民新聞

 

www.ritsumei.ac.jp

<懐かしの立命館>1945年「舞鶴第三火薬廠」勤労動員の記憶 ―K・Sさんからの聞き取り調査― | | 立命館あの日あの時 | 立命館 史資料センター準備室(旧・立命館百年史編纂室) | 立命館大学

 

syasin.biz

舞鶴旧海軍第三火薬廠(ロシア病院) - 爆薬製造していた軍事施設跡|古都コトきょーと

 

きちんと調べればもっと出てくるでしょうし、Webの情報よりも上記に紹介された書物をはじめ、郷土史家の研究を参照すればもっときちんとしたことがわかるはずです。ただ、今回はそこまでのつもりはありません。当面は、家族の歴史の中から、私が記憶している範囲のことを記しておこうというのがこのシリーズの目的だからです。

 

母が生まれた地である東京の豊島区から舞鶴に引っ越したのは、まだ小学校に上がる前のことだったといいます。舞鶴の火薬廠が大規模な拡大をはじめたのが昭和14年のことだそうです。だとすれば、ちょうどそのタイミングで祖父の一家は海軍省詰めの東京勤務から舞鶴へと転勤になっています。祖父は、火薬廠のプロジェクトに最初から参画していたようです。

舞鶴に引っ越してから、母は幼稚園に通ったのだそうです。キリスト教系の幼稚園で、食事の前にお祈りを唱えてアーメンと言ったことを、80年ほども経過したいまでも、母はしっかりと覚えております。都会ではともかくも、当時幼稚園はそれほど一般的ではなかったと思われます。ですから、やはり母はそれなりに裕福な家庭の子どもとして育てられたのでしょう。

伯母は、二人とも、東舞鶴にある小学校に通ったようです。公立の地元の小学校で、特別なものでもなんでもなかったようです(ちなみに、後に伯父の妻となる義理の伯母も、同じ時期に同じ小学校に通っていたとのことです)。祖父の一家は東舞鶴から一里ほどはなれた地区に立派な官舎が与えられ、その隣には寮がありました。祖父はこの寮の舎監をしていたのです。この寮が昭和14年頃に祖父の一家が舞鶴に引っ越した当時からあったのかどうか、わかりません。母は覚えていません。舞鶴赴任後は市内での引っ越しはしなかったようですから、官舎は赴任した当時からあったのでしょう。寮は火薬廠の完成とともにできたのかもしれません。

母は随分と病弱な子供であったと聞いています。何度も大病をして病院に入院したそうです。海軍軍人の家族ですから、海軍病院にも入院しました。軍医さんが大勢集まって治療してくれたと、母は覚えております。そんなことから考えても、祖父はずいぶんと重用されていたようです。一介の下士官にしては、扱いが手厚すぎるような気がします。こうして、祖父の実像が私にどうにもはよくわからなくなってくるわけです。

何度も繰り返す入退院の中で、母は、調子のいいときには病室で本を読んでいたそうです。ただし、限られた本しかありませんから、何度も何度も同じものを読みます。すると祖父は、その母の様子に感心して、「この子は偉い。何度も何度も読み返すじゃないか」と褒めたそうです。しかし祖母の方は、「この子は頭が悪いから何回も読まなければわからない」と言ったという笑い話も聞かされました。そんなふうに決して楽ではなかったはずの舞鶴時代ですが、その思い出は母にとって非常に牧歌的なものであったようです。現実にはそこは軍港で、しかも秘密の火薬廠の付属施設でした。ある意味、戦争のどまんなかです。けれど、母にとってはそこはたくさんのお姉さん達と暮らす故郷であったわけです。

この寮のあったところを、私は若い頃に母に伴われて訪れたことがあります。むらから斜面を上っていった小高い尾根の途中を切り開いた場所で、いまとなってはこんなところに何十人もの人が寝泊まりする施設があったとはとても思えないのですが、そこに間違いがないと母は言っておりました。戦争中でも、農業生産のための田畑を潰すことはできなかったのでしょう。火薬廠のために周囲の土地を思うままに接収した軍にとっても、やはり食料供給を減らすことは憚られたのでしょう。ですから、わざわざ山林を切り開いて施設をつくったものだと思われます。少なくとも居住施設に関しては、そのようにしたのではないでしょうか。

この丘の上の寮の周辺で、少女だった母は花を摘んだり山菜を取ったりしていたようです。また、畑仕事も覚えたようです。後になって私が子どもの頃、祖父の家を訪れると、祖父はよくミツバチの巣を世話しておりました。庭にはたくさんの花、蘭や菊のようなさまざまな植物が豊かに並べられておりました。軍艦に乗って外国に何度も出かけたことも影響したのでしょう、祖父は珍しい植物に関心が高かったようです。そしてその時代の人の倣いとして、そういうものを買い求めるよりは自分で手を下してやってみるということを常としていたようです。たとえばいまでは普通に八百屋で売っているニガウリも、当時は沖縄ぐらいでしか栽培がなかったものをわざわざ取り寄せて栽培していたようです(その影響で、母はいまでもニガウリのことを当時の呼び名である「レイシ」という名で呼びます)。この舞鶴の寮の周辺でも、自給自足的な畑は赴任すると同時にやっていたようです。養蜂もこの頃からやっていました。そういった。自然に密着した暮らしが工廠に出勤しない時には常に行われていて、その中で母はのびのびと育ったようです。体が弱かったので入院していない時には自宅で療養することもあったようで、だから学校にそれほど真面目に通ったこともないようです。当時の小学校ですから、それほど出席に厳しくなかったのかもしれません。母の話を聞くと、寮の周辺で野山に遊びに行ったことばかりが出てきます。春にはイタドリの茎を折ってその酸っぱい汁を吸って歩くとか、草花をとって花輪を作ったとか、そういう気ままな暮らしを母はこの時代に堪能しました。

舞鶴には戦争が終わった数年後まで含めて、7、8年もいたのでしょう。その間に戦争の状況はどんどん悪くなっていきます。母はまるでそんなことに無関心で日々を過ごしていたようですが、伯母の話によりますと、この頃の戦況は、日々肝を冷やすようなものであったそうです。何しろ軍港ですから、攻撃の対象になります。空襲がある。伯母は小学校卒業後、女学校に進学しておりました。戦争が激しくなると、この女学校の生徒も勤労奉仕ということで、落下傘の縫製に工場に行くことになります。伯母はそんな話もしてくれました。

この女学校、そして勤労奉仕先の工場は、市の中心部にあります。官舎は先ほど言いましたように市街地から遠く離れたむらのさらに小高い丘の上にあります。歩いて小一時間もかかったのではないかと思います。空襲警報があって、今日は早く帰れと言われて急いで家に帰る途中に、空襲が始まったそうです。振り返ると艦載機の戦闘機が自分の方にめがけて急降下してくる。飛行機に乗っている。操縦士の顔がはっきり見えたそうです。機銃掃射の音が聞こえるなか、夢中で走って帰ったというようなことを話してくれたのを覚えております。クラスメイトで亡くなった人もいたそうです。戦争が日常に影を落とす、そんな時代でした。

 

 

祖父と火薬

実のところ私は祖父のことはよく知らないのだなあと、最近になってよく思います。もちろん、それほどゆっくりと話を聞く機会がなかったこともあります。祖父は私が大学生の頃に死にました。特に晩年は病の床についておりましたから、私が祖父のことを覚えているのは中学生の頃より前なのです。けれど、それ以上に、私は祖父のことを知らないのだと、最近になってよく感じるのです。それは、私が直接会って話した祖父のイメージと、祖父が担っていた仕事の関係がどうも結びつかないからなのです。

祖父は軍人でした。砲兵です。いわば技術職です。しかし私が知っている祖父は、専ら寮の舎監という仕事をこなしておりました。これは私がまだ幼児の頃、すぐ近くに住んでいた頃も、そうでした。ある企業の確か3階建てぐらいの鉄筋コンクリートの社宅の管理責任者でした。その寮には若い人たちがたくさん住んでおりましたが、祖父はその建物のすぐ脇に一軒家をあてがわれて家族と住んでいました。母によりますと、その社宅に来てからは祖父はほとんど会社に出ることもなく、ただ寮とそれから社交的な仕事、たとえば町内の行事や自治会の世話、市役所との交渉のようなことばかりやっていたそうです。市長を中心としたサークルがあって月に一回の文化的な集まりに出るだとか、そういうことだけを日常としていたそうです。実際、私も祖父が地域の子ども会の行事でサンタクロースの扮装で子どもたちにお菓子を配っていた姿をうっすらと覚えております。それが祖父の仕事でした。

その会社に勤める前は軍人でした。この軍人の時代にも寮の舎監をしていたのだと母は言います。舞鶴に海軍の寮があった。母を含めた家族が住む一軒家の官舎のすぐ脇で、多くの寮生たちが生活していたというのです。奇妙な話です。新鋭の巡洋艦鳥海に砲手として乗り組み、戦争直前には海軍省で仕事をしていた人物が、なぜ舞鶴のような田舎で寮の舎監をやっていたのでしょう。普通に考えますと、これは左遷でしょう。しかしその寮があった場所というのが、実はかなり謎めいた土地なのです。

これは私が舞鶴の隣の福知山市に住んでいた頃に知ったことです。舞鶴はもともと鎮守府があった軍港ですから、その地形図さえ公表されないぐらいの秘密に覆われた街でした。その秘密に覆われた街のさらに山間部に、巨大な火薬工廠がつくられていたというのです。この火薬工廠に関することはすべてが絶対に秘密ということで、まず工廠を造るための敷地に住んでいた住民たちが強制立ち退きにあいました。強制立ち退きにあった事実さえ語ることが許されていなかったのだそうです。戦争後その工廠はは徹底的に破壊され、資料さえ残らないような形で隠蔽されたと、郷土史家の研究で明らかになっているそうです。現在は、ところどころ残されたコンクリートの構造物に名残があるようですけれども、基本的にはどんな規模で何をやっていたのかがよくわかっていない。もちろん火薬工廠ですから、火薬をつくっていたのは間違いないのですが、その細かな実態は、謎に包まれているんだそうです。

祖父が、寮長をしておりました寮は、実はこの秘密の舞鶴火薬工廠に勤務する人々の寮でした。工場で働く労働者の寮です。その労働者の多くは、北陸の方からやってきた女性であったと聞いております。またそれらの人々は海軍の直接の雇用ではなく下請け企業が送り込んでいたのではないかというふうにも聞いております。そして母の記憶によりますと、祖父はこの海軍の寮の舎監をしておりました頃には、時々は工場の方に出勤していたそうです。毎日ではないものの、「今日は工場に行ってくる」というような形で、ちょくちょくと顔を出していたようなのです。

このようなことを考え合わせますと、どうも祖父は砲術の専門家としてこの工廠で必要とされ、ただし常に必要とされるわけではなかったようです。そのような役割をもつ専門職として舞鶴に配属された。常に必要なわけではないから常の職務としては寮の差配をする。そういう任務であったのではないかと想像します。舞鶴は祖母の故郷でもあります。そういう意味で適任とされたのではないかと想像するのです。

もちろんここには何らかの証拠があるわけではありません。前後の状況を眺めての想像に過ぎないわけです。けれども、そうでなければ、辻褄の合わないことがいくつもあります。たとえば、戦争が終わって祖父はすぐにある民間企業に拾われて、その企業の工場がありました新潟へと転勤するわけですが、この民間企業というのが、後に自衛隊の火薬の補給を一手に請け負う企業へと成長した化学系の企業でした。この企業の扱う主力製品は、戦後急成長を遂げましたプラスチックのなかで最初に製品化されたセロハンでした。このセロハンの製造工程が、火薬の製造工程と非常に近似しているのだそうです。ですので、火薬工廠に勤めていた祖父とこの企業の間で繋がりがあるのはある意味当然といえば当然なわけです。火薬を通じた何かがある。技術的なノウハウであるとか、あるいは原料調達についての人脈であるとか、何かはわかりません。わかりませんが、セロハンや火薬の製造にとって必要不可欠な何かを祖父が押さえていたのではないかとも想像されるのです。そうとでも思わなければ、軍人あがりの単なる寮の管理人が、なぜその企業の社長とも親しく付き合い、またその企業所在地の市長をはじめとする有力者たちと交友関係が築けたのか、そういう謎に説明がつかないのです。新潟に赴任したときも、それから堺の寮の脇の社宅にいたときも、十分以上に広く瀟洒な家をあてがわれていたと聞いています。どうも祖父は、それだけの重要人物であったようなのです。そして、その根っこには、秘密の舞鶴火薬工廠が何らかの役割を果たしていたのに違いないと、私は思うのです。

軍港を転々と

海軍軍人であった祖父の赴任地について、私はおおまかにしか把握できておりません。先の戦争の従軍者に関しては、その直系2親等までの親族が厚生労働省に申請すれば軍歴を知ることができるのだそうです。そういうしっかりした調査をすれば判明するのですけれども、いまだにできずにいます。

祖父が祖母と結婚したのは、舞鶴に赴任していたときです。これは間違いないのですけれども、その後、いつ頃どこにいたか、正確には知らないのです。祖父と祖母の間の子どもたちが生まれた場所はそれぞれに異なっております。いちばん上の子、私の伯父が生まれたのは、おそらく舞鶴です。二番目の伯母は横須賀かもしれません。三番目の伯母が生まれたのは、おそらく佐世保でしょう。佐世保にはおそらく昭和九年か十年頃までいたのではないかと思われます。といいますのは、私の母が昭和十年生まれですが、彼女が生まれたころには、もう東京に引っ越していたからです。

話がややこしくなりますのは、東京の豊島区に長崎という地名があります。祖父の一家はこの長崎に住んでおりました。その直前の任地が佐世保です。佐世保長崎県にある軍港です。話を聞いていても、長崎県佐世保と東京の長崎がごちゃごちゃになりました。ですので、子どもの頃に私が聞いた話の記憶はかなり混乱しています。

いずれにしましても、母は東京生まれなのです。そしてその前の祖父の任地が佐世保であったというのは、伯母の話からも間違いないでしょう。佐世保にも鎮守府がありましたので、おそらく乗艦が舞鶴を母港とするものから佐世保を母港にするものに変更になったのであろうと思われます。そして、東京に住んでおりましたときには、どうやら横須賀を母港とする鳥海という巡洋艦に乗船していたのではないかと思われます。

鳥海に乗っていたのは、祖父から直接聞いた話です。私が子どもの頃には、プラモデルに興味を持つ子どもは少なくありませんでした。私の兄もプラモデルはいくつかつくっておりました。そのなかに妙高という軍艦のプラモデルがあったのですが、その話をしたときに祖父が喜んで、自分はこれと同じ型の鳥海に乗っていたのだと言って、何番目かの砲塔を指差して、ここのところの大砲を自分を担当していたのだ、みたいなことを言っていたの覚えております。インターネットのあやふやな情報ですが、どうもこの鳥海は横須賀を母港としていたようです。祖父は、アメリカとの戦争が始まる数年前にこの鳥海を降りておりますので、祖父母一家が東京に住んでいた時期とうまく符合するわけですね。どうやら横須賀を母港とする軍艦に乗船していたとき、家族を東京に住まわせていたのであろうと考えられます。横須賀が母港で家族が東京というのは少し離れているような気もしますが、しかし、船乗りは基本的に軍艦で生活をしております。母港に軍艦が泊まっているときでさえ家には戻らないわけです。その代わり、交代で長期の休みがあります。休暇中はずっと家におります。ですから少しぐらい住居が離れていても、それほど不便はなかったのではないかというふうにも考えられます。

舞鶴佐世保、東京と転々とするなかで、伯父、二人の伯母、そして母と四人のきょうだいが誕生します。それぞれの場所でどんな生活だったか、いまとなっては知りようもありません。佐世保時代の様子は、伯母から少しは聞きました。休日に家族で遊びに出た山の上から港が見えたとかそんなことを聞いております。

東京の長崎に関しては、母にはぼんやりした記憶しかありませんが、伯母ははっきりと覚えておりました。向かいの家に住んでいた人であるとか、近所の人の話もしてくれました。名前まで覚えていました。けれども、私の方で詳しいことはほとんど忘れてしまいました。記録をとっておけばよかったなと思います。豊島区の長崎はいまではずいぶんと都会ですが、まだその頃は校外ののんびりしたところでもあったようです。

やがて祖父の一家は舞鶴に転勤になります。祖母の故郷である舞鶴に戻るわけですが、これがいつ頃のことであったのか、いまひとつはっきりしません。鳥海を降りてから、しばらく本省の方に勤めていたとも、伯母に聞いたような気がします。本省というのは海軍省ですね。前線ではないのですが、砲兵上がりの下士官にどんな仕事があったのか、想像もできません。ただ、時代の流れからすれば、目前に迫った日米開戦に備える準備行動であった可能性があるのかもしれません。というのは、開戦直前の、おそらく昭和15年頃、舞鶴に戻るにあたって、その任務がかなりあやしいものであったからです。このあたりの話は次回になりましょう。

祖父が結婚するまでのこと

母の若い頃のことや母のきょうだいの歴史を語ろうと思いますと、やはり母の父親、つまり私の祖父のことから始めるのが最も適当ではないかと思います。祖父は、長野県、つまり信州信濃の山奥で牛飼いを営んでいた一家の生まれと聞いております。その一家の中でどのような位置付けにあったのかとか、あるいはその一家がどんな一家であったのかということは、私は何も聞いておりません。

ずっと後になりまして、私の母と伯母を連れて、私の兄が祖父の故郷を訪れたことがありました。高齢者となったきょうだいとともに一族のルーツを辿る旅だったのでしょう。そのときのことは、兄からも、母からも聞きました。最初は市内のなんという地名の場所かもわからず、市役所に行って住宅地図を見せてもらったそうです。すると、山の中のむらに母親の旧姓と同じ姓をもつ家が集中しているところがあった。集落内がほとんど同じ姓で、二軒か三軒だけ、明らかによそから来たとわかる苗字があった。そこに違いないとあたりをつけて、さっそくその山の中のむらに入っていきますと、どうも見覚えがある顔が歩いている。祖父にそっくりな──そっくりとまではいかなくても面影を残したような──人がいる。尋ねてみると、やはり親戚筋の人で、祖父のことをよく覚えていたそうです。ということで、出身のむらまではわかっているわけです。そこで聞き込みをすれば、もっと詳しいことまでわかったのだと思うのですけれども、決して歴史的な興味で訪れたわけではなく、母と伯母が祖父の昔を懐かしむのがテーマであったので、それ以上の詳しいことはたいして調べなかったのでしょう。少なくとも私は何も聞いておりません。

ともかくも、牛飼いであったことは母からよく聞いておりました。牛飼いですから、祖父は子どもの頃からよく牛乳を飲んでいたそうです。そのせいか、祖父は非常に頑健な身体の持ち主でした。昔の人にしては体格がよかった。私の父が昔にすればずいぶん背の高い男であったという話は別のところでしましたが、その父とこの母方の祖父は、私の記憶ではほぼ身長が変わりませんでした。父は、現在の基準からいえばごく平均的な若者の身長と変わりません。しかし、栄養状態の悪い戦争前に育ったあの世代では、周囲よりも頭一つ抜けていた。ということは、祖父は父よりもさらに一世代昔の人ですから、これはもう相当な大男であったのであろうと思われます。明治生まれですから、雲をつくような男といってもよかったのではないかと思われます。私の記憶でも、とにかく手足が長く、背中の大きな人でした。

この体格に加え、祖父は頭もよかったのでしょう。あるいは志が高かかったのでしょうか。山奥のむらに止まることをよしとせず、軍人を志します。当時、山の中の次男坊、三男坊が軍人になるといえば、たいていは陸軍に決まっていたようです。しかし、祖父は海への憧れをもっていたのでしょう、海軍に志願いたしました。海軍に入って、頭の良さを見込まれたのか、砲兵に配属され、さらに砲術学校へと進みました。昔の軍隊では、一般に職業軍人は兵卒から下士官へというのが通常の出世コースです。下士官にのぼりつめて何か功績があるとか、退役の時に特別に目をかけてもらえるとか、運が良ければ士官の中でいちばん下っ端である尉官、すなわち少尉、中尉なんかへの昇進も可能ではあったようですが、基本的には下士官、つまり伍長、曹長といったのが関の山です。それでは将校はどんなところから供給されるかといいますと、陸軍学校や海軍兵学校です。陸軍学校や海軍兵学校を卒業しますと、最初から少尉に任官されるわけです。この尉官から出世しますと、佐官すなわち少佐、中佐、大佐というところまでいくわけです。さらに出世しますと将官すなわち大将、中将、少将といったところになるわけですが、そこまでのぼり詰める人はごくわずかで、たいていは尉官、佐官あたりで退役をするわけですね。そして、海軍兵学校とは別に、砲術学校というのがあったようです。この砲術学校は、専門的な軍人を養成するということで、士官を養成するコースと下士官を養成するコースがあったようです。祖父はこの学校に行き、若くして下士官に任官します。一般の水兵ではなく下士官として一つランクが上のところで軍人としてのキャリアを積み上げていったわけです。

軍艦には必ず大砲がありますから、砲兵の仕事はこの軍艦に乗って大砲を管理運用することです。軍艦は平時には世界を巡りますから、祖父はずいぶんと外国にも行ったようです。ただ、軍艦には必ず母港があります。平時には軍艦はすべて母港に配属されます。当時の海軍は鎮守府という制度をとっておりまして、全国にいくつかの鎮守府と呼ばれる軍事拠点がありました。軍艦は、これらいずれかの軍事拠点に所属するわけです。祖父が乗船した軍艦は、舞鶴鎮守府に配属されていたようです。そして、舞鶴鎮守府に配属されておりましたときに、祖父は地元の酒屋の娘と結婚することになります。この酒屋の娘が、私の祖母にあたるわけですね。

祖父のことを話すとなるとと、当然祖母のことも話さなければいけないのです。けれども、祖母の方に関しましても、実は私はきちんとしたことを聞く機会を失ってしまいました。切れ切れには聞いてたのですけれども、もうちょっときっちり聞いておけばよかったなぁという後悔が残っています。祖母は祖父が亡くなったあと──数ヶ月の間に過ぎませんけれど──私の家に滞在しておりました。そのときにいくらでも話をする機会があったのです。もっといろんなこと聞けばよかったなと、いまになれば思います。けれども当時はそんなことは思いもよらなかったのですね。私は大学生でしたから聞こうと思えばずいぶんいろんなことが聞けたし、聞き出したものはきっと記憶にも残ったはずなのです。

ともかくも、祖母の若い頃のことで私が知っているのは、現在の舞鶴市に属する由良川という川を遡ったあたりにあるとある集落の出身だということだけです。この場所は私も後に知り合いが住んでいたこともありまして何度か訪れております。現在ではずいぶん小さな集落です。けれども明治時代には旧村の役場もあったところらしく、多少はその辺りの中心地でもあったようです。ですので、農家ばかりではなく、いくつか商店や小さな事業を営む人が住んでおりました。そこで造り酒屋を営んでいたのがどうも祖母の出身の家だということであるようです。

この辺りもかなりあやふやに聞いておりますので随分と事実と違うことがあるのかもしれませんけれども、この造り酒屋の跡継ぎがどうも酒屋の経営には失敗したようです。これは無理もないことで、実際、明治時代に田舎の方で小規模に営まれていた造り酒屋は徐々に徐々に淘汰され、昭和にかけて大手の酒造会社へと変わっていきます。かって造り酒屋をやっていたところでも酒の小売に身を転じていくところが少なくなかったわけです。当然、時代の流れの中で造り酒屋の事業は変わっていかざるを得なかったんだと思います。

祖母には何人かのきょうだいがおりましたけれど、そのうちの二人は、その由良川をさらに遡ったあたり、現在の福知山市に属する集落の方に嫁ぎます。祖母の方は若い頃はお針を習ったりなんだりとそれなりの花嫁修行をしていたようです。そして海軍さんの方から縁談があって、軍人の嫁として嫁ぐことになった。このようにして、私の祖父と祖母の新たな結婚生活が。舞鶴という町を拠点にして始まったというように聞いております。 

母の一族のこと

母親の若い頃のことを記録したいと思うんですが。これに際して私の中に少し後悔があります。私の母は四人きょうだいです。つまり、私から見て母方には一人の伯父と二人の伯母がいました。母を含めて男一人、女三人のきょうだいでした。伯母の一人は、私が二十代の頃に亡くなっております。もうひとりの伯母は、比較的最近まで存命でしたが、晩年は、認知症が入って施設で。過ごさざるを得ませんでした。
その伯母が、まだ自宅で元気に生活をしていた頃、よく私に言ったものです。
「私らきょうだいの歴史をまとめたらものすご面白いやろうね。大河ドラマになるんちゃうか」
そんなふうに。何度も話した伯母のことを私はよく覚えております。
その記録をする人がいるとしたら、それは私をおいていないだろうなと思っていました。といいますのも、私は若い頃、何冊か自伝の編集に関わったことがありました。自分史の編纂に興味を持ち、そして時には仕事として、編集者として関わってきたのです。ですので、自分にはそれができる、自分なら、伯父、伯母、母親含めてのきょうだい、あるいはその一つ上の世代である祖父、祖母の歴史をひとまとめに記録しておくことができるだろうと思っておりました。その時点で長兄である伯父、長女である伯母、そして三女である母の三人のきょうだいが生き残っていたわけですから、順次聞き取りをすれば、かなりのところまで。正確な記録ができるだろうと思いました。
しかし、時の流れは思った以上に早いもので、私がそんなふうに思ったときから、ふと気がつくと、忙しさの中で取り紛れて何もしていないうちに、伯父が亡くなりました。なにひとつ手を付けていないうちに伯父はいなくなってしまいました。もちろんそれ以前に、伯父からは昔のことをちょくちょくとは聞いておりましたので、しっかりまとめて聞き書きをすれば非常に面白い話になるだろうなということは感じておりました。それを果たせないまま、伯父に永遠の別れを告げないといけないというのは、ずいぶんと残念なことでした。
そういうことがありましたから。私はこれはなんとしてでも残された人々の記録は取らねばならないだろうと思いました。当時、私の仕事はさほど忙しくなかったので、伯父と長年連れ添った伯母のところに通って、亡くなった伯父のことを尋ねれば、しっかりと記録できるんじゃないかと思いました。伯父から直接は聞けなくとも、伯母から相当詳しい話は聞けそうだと思ったわけです。
そのことを母に相談した時に、意外にも母はそれに強く反対いたしました。順番が違う、というのです。このあたり、私はお年寄り、あるいは当事者の感覚をきちんと読みきれていなかったのだなぁと思うわけです。私の感覚では、記録の目的はなによりも情報の保存です。あるいは、伯母が言いましたように「面白い話になるだろう」という興味です。さらには私自身の関心です。ところが、当人たちにとってはそうではない。長く生きてきた人にとってその歴史を語るということは、それは一つの足跡を残すということであり、名誉にかかわることなんですね。尊厳にかかわることでもある。特にそれを書物の形で残そうというのは、それにふさわしい人でなければならない。そして、ふさわしい人は、昔の感覚から言えば長幼の序、というものが優先されるのですね。だから、「順番がちがう」というのです。
その言葉に私は逡巡しました。この言葉がなければ、私はもっと気軽に動けたかもしれません。私の動きは鈍りました。それでも私は、伯父の妻、つまり私からみての叔母に、伯父のことを教えてくれないか、語ってくれないかと頼みました。最初、叔母は快諾してくれました。しかし、しばらくして、やっぱりそれはできないと断りの言葉をもらいました。思い出そうとすると辛くて、とても耐えられそうにない、というのですね。これも予想外のことでした。そういう面でも、私は当事者の感覚をつかみきれていなかったわけです。人間は、そんなふうに、感情を抜きにしては語れないのだなということを改めて思いました。
そうこうするうちに、母の姉である伯母が施設に入ることになりました。これは伯母の夫、つまり叔父が亡くなったことをきっかけとしたものです。それまででも伯母は高齢のせいで多少の認知症の気配があったわけですが、体の弱ってきた叔父と伯母が二人で生活する中でお互いの弱ったところを支えあうような形で、二人で自立した生活をしていたわけです。しかし叔父が亡くなったことによって気が動転したせいでしょうか、伯母の認知症はさらに悪化したように思われました。その伯母をそのまま一人で生活させておくわけにはいかない、ということで、伯母の一族は苦渋の決断をし、伯母は施設に入ることになったのです。
この施設に、私は何度か見舞いに行きました。認知症といっても、古い話は結構覚えてるものなんですね。ですので、最初に見舞いに行ったときに、随分と昔のことをはっきりと話してくれました。これは、タイミングを失った伯母から昔の話を聞き出す機会だと思いました。ただ、このとき、私は何の準備もしていませんでした。そこで、次回には録音できるように機材を整えていきました。そのつもりでしたが、ちょっと準備が悪かったのか、録音データがうまく残らなかったのですね。そして、三度目に行ったときには、伯母はかたくなに昔のことをしゃべるのを拒みました。昔のことだけではありません。なにを話しても話題をそらそうとする。心を開くのを拒むような様子がありました。「そんなん、もうええやん」と、強いていうなら、あらゆることから目を逸らそうとしているような姿勢でした。私はそのとき、認知症と呼ばれているものが決して常に同じ状態ではないのだということを知りました。
長年連れ添った伴侶が死んでしまったショックで、おそらく認知症は一時的にはかなり悪化していたのでしょう。しかし施設に入り、療養をし、休養を十分にとり、現状の認識が少しずつ整理されていく中で、認知症そのものは大きく改善していったのではないでしょうか。しかし認知症が改善すると、今度は施設に閉じ込められている自分、さらに高齢者としての介護を受けている自分、人の世話にならなければ生きていけない自分、料理一つ作れない自分、作ることを許されていない状況、まるで幼児のように手遊びだとか愚にもつかないことをさせられている自分、そういう現状に対する認識が生まれてきます。その中で、おそらく伯母は絶望し、そして恥じ入る中で、もう何を話すことも不適切であると感じられるようになったのではないかと思います。
このような経緯から私は、二人の重要な登場人物から話を聞く機会を失いました。残されたのは母だけです。ただ、この母に関しては、実はあまりしっかりした情報源にならない部分があります。「信頼できない語り手」という表現がありますが、母はある意味非常に信頼できない語り手なのです。
というのも母は、嫌な記憶を書き換えるという、とんでもない技をもっております。実はこれは、多少とも私も受け継いでいます。なのでよくわかるのですが、人間、嫌な記憶を書き換えると、非常に生きやすいのですね。この技は、本人が生きていく上では非常に役立つのです。しかし、残念ながら記録を残す上ではほとんど役に立ちません。なぜ母が「信頼できない語り手」であるかわかるのかというと、伯父や伯母から聞いた断片的な話は私の中に残っているのですが、それらと母の話とを比べると、どうしても辻褄が合わないところがいくつも出てきます。
ということで、私は信用すべきインフォーマントを全て失っています。そして、あやふやな母の話を頼りに進めていく部分が多くなってしまいます。それでも、きちんとした記録はとらなかったけれども、私の中に記憶として残る伯父や伯母の話を頼りに、母の話も織り交ぜて、母の一族のことを書いていこうと思います。あやふやな記憶ではありますが、それらを呼び起こして、ここから先、いくつかの記事を書き綴っていきたいと思います。 

次章に向けて

父と母が結婚後1年余りして兄が生まれ、そのさらに1年余り後に私が生まれます。父の人生は、もちろんここからのほうが長いわけで、もっともっとここから先にいろいろなことがあります。父の話をここで終わるのはまだまだ早いわけです。続きとしてそれを語っていくべきなんでしょうけれども。いくつかの理由で一旦ここで父の昔話をするのは一区切りにしようと思います。

理由の一つは、話の出どころの変化です。ここまでの話の内容は、主に父から聞いたことでした。もちろん母の思い出話、仲人さんからの聞き取り、あるいは周辺のことに関しては私自身の知識からもずいぶんいろいろと余分なことを付け加えました。けれども、ここから先のことは父から聞いたことよりも、私自身の思い出、子どもの頃のおぼろげな記憶、あるいは母から聞いたことや兄が思い出したことが中心になっていくと思われます。自分で見てきたことをあらためて父に尋ねることもなかったし、いくらかは父に聞いたとしても、それは自分の記憶を補強するものでしかなかったわけです。そうなると、やはり父の思い出話を中心とした記述は、ここらあたりで一区切りがつけられるのではないかと思われるわけです。

もう一つは、時代が下ってきますと生存してる方が多くなることです。父の兄姉はすでに全員が他界しております。一人も生き残っていません。そういう人たちのことについて、もちろん嘘を書くつもりは全くないわけですけれども、私自身が誤って記憶していること、思い違いをしていることは多々あるでしょう。けれど、こういう言い方は失礼かもしれませんが、亡くなった人のことですから、もうそれは「間違いは間違いなんだ」と笑いごとで済ませてくれるのではないかと思うのです。しかし、これが父と母の結婚後の話になりますと、やはりご存命の方も多くなります。ここでも私が誤って記憶していることや思い違いなどもあるわけですが、そういうことを書き残すのは、生きている方々にとって、失礼なこと、不都合なことにもなろうかと思うわけです。いろんなことで差し障りがある。だからといって何も残さずにいつまでも置いておくわけにもいきませんから、そのうち機会がありましたら、あやふやなところはなるべく確認を取るとか、あるいは少しフェイクを入れるなどの工夫をして、なんとか残しておこうとは思います。しかし、それやはり父の思い出話を中心として構成してきたここまでの部分とは本質的に異なります。それはそれで、改めて書き起こさねばならないのでしょう。

このブログ、冒頭で書きましたように、音声入力を練習するために始めたものです。あまり考えずに出てくる持ちネタを練習の題材にしようということで、じゃあ思い出話がよかろうと、父の思い出話を始めました。では、次にどう進めていくかということですけれども、父のことを書きました以上、やはり母のことも書いておくべきかなと思います。ただ、母はまだ存命中ですし、最近のことを書けばいろいろ差し障りが出てくるということでは、父の結婚後の話と同じです。比較的差し障りがないかなと思われるのは、やはり母の若い頃、つまり父と結婚するまでのことでしょう。そして、その時代のことになりますと、母のことだけでなく母の一族、つまり私の祖父、祖母、母の兄姉まで含まれてきます。これらの方々は、ほとんどが亡くなっております。そういう人々の思い出です。これらの人々から私が断片的に聞いたことを書き止めておくのは、一つ意味のあることなのかもしれません。そういったことを次の章として書きついでいこうかなと思っております。 

父の結婚

父と母は、結局のところ父が八十八で亡くなるまで、半世紀以上も添い遂げたわけです。なかなか立派なものです。その二人が出会ったときは、もちろんまだとても若かった。二人とも二十代です。そして時代も若かった。もちろん戦争に負けた──敗戦という非常に大きな出来事があって、まだ十年少ししかたたない時代でもあります。傷口も癒えきってはいません。けれど、言葉を変えれば、戦争によって古いものが焼き尽くされ、新しいものをつくっていく機運が高まっていた時代だともいえるでしょう。そのような中で父は母のどのようなところに惹かれたのか。どうやら父は、母の古いものにとらわれないところ、自由でのびのびしたところに惹かれたようです。

父が育ったのは農村です。農村は、元来が古くからあるものを引き継いでいく姿勢をベースにしております。明治以来の家父長制ということもありましたけれども、農業というものがそういうものなんだと思います。そういうところに育って、そして時代遅れの住み込み奉公という形で商売人としてのキャリアを始めた。従って、父の中には古いものに対する不満が大きく息づいていたのでしょう。そしてそこには、甘やかされて育った末っ子ということも関係しているのかもしれません。ちなみに母も末っ子でした。海軍軍人の家に生まれた四人兄妹の末っ子でした。軍人の家ですからそれなりに教育は厳しかったはずです。しかし、海軍は陸軍とは違い、モダンである。海外の情報をつかんでいる関係上、開明的である。そういうモダンな雰囲気も、母は受け継いでいたようです。

母が初めて父の家に参りましたときのエピソードです。縁談があった時点で父はもうすでに後の新居となる新築なったばかりの一軒家に住んでおりました。最初のデートのあと、どのくらいの付き合いがあったのかは知りませんが、やがて母は、その家を訪問する。この家に芝生があった。これもまた父の一風変わったところであったわけですね。なぜなら家を一軒建てるということになりますと、当時の田舎ですから、当然庭が付随する。百姓屋の場合、庭が作業場にもなりますですので、踏み固めた地面からなる広いスペースを空けたものが庭となる。百姓でなければ、庭には築山をつくったり木を植えたりするのが普通でしょう。しかし、父の場合、どちらにもせず、芝生を植えていた。芝生の庭というのは、アメリカ風の家のつくりです。アメリカでは、芝生をきれいにしておくのがハウスメンテナンスの基本になるのだそうです。日本ではふつう、なかなかあるものではなかった。その芝生を見ると、母は靴も靴下も脱いで裸足になり、その芝生の上を歩いて気持ちがいいと言った。そしてあろうことかその芝生の上にゴロンと寝っ転がったそうです。それを見て、父は「ああ、この人なら」と思ったんだそうです。二十数件の縁談を断り続けた父ですけれども、母の突拍子もない行動には何か感じるものがあったようです。

プロポーズに関しましては、先にも申しましたように指輪を突然渡したという愛想もくそもない話ですが、母がそのプロポーズに応える──つまり結婚を承諾しようと思ったのは、ある言葉がきっかけなんだそうです。それは、母が尋ねた言葉に父が答えたものです。あるとき、母は「私が歳をとって歩けなくなったらどうする?」と父に尋ねたんだそうです。母はもともと病弱な人でした。小学生の頃に何度も入院を繰り返し、あるときなどはもう医者に見放されるほどの重病にもかかったそうです。そういうことがあったので、自分自身の健康に自信がなかったのでしょう。だから、父に「私が歩けなくなったらどうする?」と尋ねた。そうすると父は、「負っていってやる」と答えのだそうです。それを聞いて母は「この人なら」と思った。という話です。

このようにして二人が結婚するわけですけれども、昔のことですから、結婚した嫁は非常にいい加減に扱われた。嫁を取ったら、取ったものはもう家のものだみたいな感覚がどうもあったようです。手続きだとかそういうことはもうほったらかしになっていた。母としては、結婚したらもう籍が入っているものだと思っていたようですが、一ヶ月ほどたって尋ねてみたところ、まだ籍は入っていない。いつ入れてくれるんだと言っても言葉を濁すばかり。仕方がないから自分で書類を整えて役所に行ったそうです。そういういい加減なことが通ったのが、この時代の結婚であったのだろうと思います。