この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

軍港を転々と

海軍軍人であった祖父の赴任地について、私はおおまかにしか把握できておりません。先の戦争の従軍者に関しては、その直系2親等までの親族が厚生労働省に申請すれば軍歴を知ることができるのだそうです。そういうしっかりした調査をすれば判明するのですけれども、いまだにできずにいます。

祖父が祖母と結婚したのは、舞鶴に赴任していたときです。これは間違いないのですけれども、その後、いつ頃どこにいたか、正確には知らないのです。祖父と祖母の間の子どもたちが生まれた場所はそれぞれに異なっております。いちばん上の子、私の伯父が生まれたのは、おそらく舞鶴です。二番目の伯母は横須賀かもしれません。三番目の伯母が生まれたのは、おそらく佐世保でしょう。佐世保にはおそらく昭和九年か十年頃までいたのではないかと思われます。といいますのは、私の母が昭和十年生まれですが、彼女が生まれたころには、もう東京に引っ越していたからです。

話がややこしくなりますのは、東京の豊島区に長崎という地名があります。祖父の一家はこの長崎に住んでおりました。その直前の任地が佐世保です。佐世保長崎県にある軍港です。話を聞いていても、長崎県佐世保と東京の長崎がごちゃごちゃになりました。ですので、子どもの頃に私が聞いた話の記憶はかなり混乱しています。

いずれにしましても、母は東京生まれなのです。そしてその前の祖父の任地が佐世保であったというのは、伯母の話からも間違いないでしょう。佐世保にも鎮守府がありましたので、おそらく乗艦が舞鶴を母港とするものから佐世保を母港にするものに変更になったのであろうと思われます。そして、東京に住んでおりましたときには、どうやら横須賀を母港とする鳥海という巡洋艦に乗船していたのではないかと思われます。

鳥海に乗っていたのは、祖父から直接聞いた話です。私が子どもの頃には、プラモデルに興味を持つ子どもは少なくありませんでした。私の兄もプラモデルはいくつかつくっておりました。そのなかに妙高という軍艦のプラモデルがあったのですが、その話をしたときに祖父が喜んで、自分はこれと同じ型の鳥海に乗っていたのだと言って、何番目かの砲塔を指差して、ここのところの大砲を自分を担当していたのだ、みたいなことを言っていたの覚えております。インターネットのあやふやな情報ですが、どうもこの鳥海は横須賀を母港としていたようです。祖父は、アメリカとの戦争が始まる数年前にこの鳥海を降りておりますので、祖父母一家が東京に住んでいた時期とうまく符合するわけですね。どうやら横須賀を母港とする軍艦に乗船していたとき、家族を東京に住まわせていたのであろうと考えられます。横須賀が母港で家族が東京というのは少し離れているような気もしますが、しかし、船乗りは基本的に軍艦で生活をしております。母港に軍艦が泊まっているときでさえ家には戻らないわけです。その代わり、交代で長期の休みがあります。休暇中はずっと家におります。ですから少しぐらい住居が離れていても、それほど不便はなかったのではないかというふうにも考えられます。

舞鶴佐世保、東京と転々とするなかで、伯父、二人の伯母、そして母と四人のきょうだいが誕生します。それぞれの場所でどんな生活だったか、いまとなっては知りようもありません。佐世保時代の様子は、伯母から少しは聞きました。休日に家族で遊びに出た山の上から港が見えたとかそんなことを聞いております。

東京の長崎に関しては、母にはぼんやりした記憶しかありませんが、伯母ははっきりと覚えておりました。向かいの家に住んでいた人であるとか、近所の人の話もしてくれました。名前まで覚えていました。けれども、私の方で詳しいことはほとんど忘れてしまいました。記録をとっておけばよかったなと思います。豊島区の長崎はいまではずいぶんと都会ですが、まだその頃は校外ののんびりしたところでもあったようです。

やがて祖父の一家は舞鶴に転勤になります。祖母の故郷である舞鶴に戻るわけですが、これがいつ頃のことであったのか、いまひとつはっきりしません。鳥海を降りてから、しばらく本省の方に勤めていたとも、伯母に聞いたような気がします。本省というのは海軍省ですね。前線ではないのですが、砲兵上がりの下士官にどんな仕事があったのか、想像もできません。ただ、時代の流れからすれば、目前に迫った日米開戦に備える準備行動であった可能性があるのかもしれません。というのは、開戦直前の、おそらく昭和15年頃、舞鶴に戻るにあたって、その任務がかなりあやしいものであったからです。このあたりの話は次回になりましょう。