この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

父の縁談

お見合いと言いますと、我々は因習であるとか、政略結婚であるとか、何かそういう仰々しいものを連想します。お見合いの席のマナーでありますとか、釣書の作法でありますとか、そういったものがまとわりついてくるもの、格式あるもの、古めかしいものというイメージがあります。けれども、一時期のお見合いは、もっと気軽なもの、現代の人々がマッチングアプリを利用するのとあまり変わらないものでもあったようです。もちろんその時代のお見合いの中にも、政略結婚的なもの、親が決めた縁談みたいなものも紛れ込んではいたでしょう。けれども、多くの場合は単なる出会い、縁結び、偶然の背中を少し押すような、そういう仕組みであったと考える方がどうもよいのではないかという気がいたします。

現代のマッチングアプリでは、自分自身が登録する、自分自身の意志がまずなければ前へ進みません。昔の見合いはそうではなく、周りの方が縁談を持ち込んでくる形でスタートする。そういう意味では、周りの影響が大きい。本人の意思とはやや無関係なところで話が始まる部分はあったようです。しかし、実際に縁談が、始まってみますと、現在のマッチングアプリと大きく変わることはなかったのではないかという気もいたします。

もちろんこれは、時代によっても違うわけです。見合いに格式とか形式が重んじられるようになったのは、意外にも古い時代ではなくて、世の中が豊かになった1960年代以降のことではないかという気がいたします。このあたりは調べることができれば面白いのではないかと思いますが、調査のしようがないのかもしれません。ともかくも私は、実証的な話ではなく、父の縁談がそうだったから、そんなふうに思うのです。

父は、実はお見合い強者でありまして。若い頃に二十数件の縁談を次から次へと断った実績を持っています。一般に、子どもは親の馴れ初めを知りたがるものです。私と兄も、子どもの頃、親に「どうしてパパとママは結婚したの?」というようなことを、一度ならず尋ねました。そして、「見合いだ」と聞くと、なんとなくがっかりしたのを覚えております。やはりなにか世紀のロマンスみたいなものを期待するわけですよね。その子どもたちのガッカリ感を察知したのか話を盛り上げようとしたのか、父はこの二十数件の縁談の話をするわけです。「向こうの端からずっとこっちの方へ順番に見合いをしていって、一つも気に入ったものがなかった。最後にこっちの端で、ママと巡り合った」というようなことを話すわけです。ちなみに、この新田地区は、北側に大和川という大きな川が流れております。当時は近くに橋もありません。なので、北側とはあまり交渉がない。むらの付き合いは、主に西から南、東ということになります。東の方の近在から順番に縁談をチェックしていき、南の方をまわって、西の端、つまりJRの浅香駅の方まで、次々にことわっていった。気軽にどんどん破談にしていけたのは、現代のマッチングアプリと大差ないように思います。現代でも、登録してメッセージを送っても返信がなかったり、逆にメッセージを無視したり、あるいは会うところまでいっても一回限りで連絡がない、というようなことはいくらでもあるわけです。そして、それを繰り返す人も、いくらでもおります。まあ似たようなものではなかったのかなと思います。

ともかくも、この西の果ての浅香駅の近くに、私たちの母となる人が住んでおりました。その縁談が最後に決まったのだ、というのが父の話です。まあ、そんなにうまくいくわけはないんですよね、考えてみれば。縁談が東から順番に一つずつくるわけはありません。話半分で、かなり盛っているところはあると思います。ただ二十数件の縁談をことわったというのは、あながちウソではないのかもしれません。というのも、戦争がありましたからね。若い男のかなりの部分が、戦争で死んでいます。ですから、男性優位で、少しでも気に入らなければ破談にすることが可能であったのかもしれません。

ともかくも、順番に行って最後が西の端、というのは、仮に本当だとしても偶然に過ぎません。少なくとも、父の側以外の当事者には、そんな認識はなかったはずです。これは確認がとれております。といいますのはこの二人の縁談をまとめた仲人さんが、まだご存命です。もう九十代の年齢ではあるんですが、まだまだ元気です。その彼女に話を聞く機会がありました。この仲人さん、母とは歳の差が六つか七つぐらいでしょうか。母が二十二歳で結婚していますから、当時まだ三十前ぐらいの若い女将さんです。彼女は、市場の片隅で小間物を扱う店をやっていたそうです。この小間物屋のお客さんに娘がいた。親に連れられて度々店先に現れます。聞いてみれば割としっかりした学校──この時代にはもう新制の高等学校ですね──高等学校を卒業して、堺市内にありますメーカーで事務仕事をしている。いい娘さんだということを次第に知るようになります。彼女は、市場で商売をしておりますけれども、元々は新田地区の出です。地縁、というか遠い縁続きの中に、ちょうど年頃の男がいる。私の父親ですね。しっかりした会社に勤めていて、最近稼ぎもいいらしいと、その母親から聞いている。二人を結びつければこれはいい縁になるのではないかと思って、双方の母親に話を持ちかけると、それは良かろうということになる。お見合いを設定するわけですけれども、釣書ですとか一席を設けるとか、そういう堅苦しいことは致しません。日時だけを決めて、男性の方にあらかじめ店の近くまで来させておく。うちの母親の母親──私の祖母にあたる人に、娘さんをいついつ連れて来なさいと指定しておく。この娘さんの様子を、父は市場の片隅から知らぬ顔で見ているわけです。なんだか平安時代の隙見のような話です。

このようにしてどんな人かを観察させておいた上で、どうだと話をする。まああの人ならよさそうだというようなことになりましたので、改めてデートの日を設定する。仲人さんによりますと、何でも二人はミナミの方に映画を見に行ったんだそうです。どんな映画だったのかよくわかりません。ちなみに、私が子どもの頃、母に「若い頃、二人で映画なんか見に行ったの?」と聞くと、母の方は「パパは時代劇か寅さんぐらいしか見ないし、私は洋画を見たかった。全然趣味が合わないから、一緒に映画を見に行ったことはない」と言っておりました。けれども、少なくとも初回のデートは、映画館であったようです。こんなふうに、お見合いといっても格式も何もありません。ただ単に若い二人を出会わせて、後はデートに行って、気があったらそっから話を進めてくれ、と任せるわけです。現代のマッチングアプリとあまり変わらないと思います。

これは、たまたまそういう時代だったということでもあるのでしょう。戦争前は、家長の権力が絶対で、その許可がなければ何事もできない。その慣習は、戦争が終わって急速に変わるわけではありません。影響は長く残ります。しかしまた、敗戦を契機として、個人を単位とした新憲法が発布される。その中で、旧来のものは駄目だ、新しい社会をつくっていかなければいけない、という機運が社会に満ちてくる。なにしろ日本は戦争で負けておりますから、大人の世代は全部ひっくるめて責任があるわけです。ですから、若い人たちが新しい社会をつくっていこうという動きを押しとどめるだけの説得力あることが何も言えなかった。実際、農村でもこの時期に青年たちの活動が急速に広がっていきます。そのような「民主化の春」のような雰囲気が、戦後十年ぐらいは続いたようです。その空気の中で、お見合いもかなりカジュアルに行われたのではないかと想像しております。

二人の見合いが何月ぐらいに行われたのかは知りませんが、何ヶ月かの交際期間を経て、プロポーズとなります。このプロポーズに関しましても、私たちが子どもの頃には母から笑い話の一つとしてよく聞かされました。その頃、父は堺にある自宅(先に述べましたように家一軒分を飲み潰した後に残ったお金で家を一軒建てております)に住んでおります。家族で住めるくらいの立派な家ですけれども、そこに一人住まいをしている。そこから松屋町筋にある会社まで、毎日スクーターで通勤をしている。そのスクーターでもって、ある夕暮れ、浅香駅の近くにありました母の住まいまでいきなり乗り付けてきました。そして、母に向かって、「これ」と一言言って、指環を差し出したんだそうです。あっけにとられてる母を残して、父はスクーターで去っていった。「なんなんだ、あれは?」という印象のプロポーズであったというふうに聞いております。 

ポリエチレン袋販売の黎明期

プラスチック製品は基本的に戦後のものです。戦争前から合成樹脂は研究され、日本国内でも多少は生産されてはいたわけですけれども、これらが実際に製品に利用されるようになったのは、第二次世界対戦中、アメリカとイギリスでのことだったそうです。

プラスチック製品の中でも、特に包装資材として用いられるようになったのは、セロファン、塩化ビニル、ポリエチレン、ポリプロピレンなどです。この中で最も早く市場に出たのはセロファンです。ただ、多くのプラスチック製品が石油化学製品であるのに対し、セロファンは原料が木材です。どちらかといえば、紙に近い。石油化学製品に限りますと、比較的早く製造技術が確立したのは塩化ビニルだそうです。それにしても、日本国内で商業的な製造が始まったのが1950年頃のことだそうで、戦争が終わってから5年ほど経っています。ポリエチレンの生産は、それからさらに十年近く遅れます。1958年に最初の製造ラインができたそうです。ただ最初のうちは生産量も少ない上に、生産されたポリエチレンをさらに製品化していく加工業はさらに遅れます。ですので、ポリエチレン袋やフィルムが現在のように広く利用されるようになるのはさらに後のことになります。

ポリエチレンよりも塩化ビニルの方が先に人々の目に触れるようになった関係からか、普及期にはプラスチック袋のことをビニル袋と呼ぶようになりました。いまだに年配の方などは、プラスチック袋のことをビニール袋と呼びます。包装資材を扱っておりました父は、(俗称としてビニール袋という言葉を使わなかったわけではありませんが)、プロですので「あれはポリ袋というのが正しい」と、子どもである私にもよく言っておりました。私が子どもの頃には、すでに父の仕事はポリエチレンの卸売りになっていたのです。私は1960年の生まれですので、物心ついた頃というのは1960年代半ば過ぎです。その頃にはもうポリエチレンが会社の主な仕事になっていました。つまり、1960年代前半までに、もともと紙袋を主に扱っておりました父の次兄の経営する会社は、ポリエチレン、さらに加えてポリプロピレンを主体に事業を展開するように大きく舵を切っていたのですね。

前に述べましたように。1950年代半ばまでのどこかで、父は一旦会社を辞めて遊び人の生活をやっておりました。その父が結婚したのが1958年です。その結婚をするまでに、父は次兄の会社に戻っています。いつ頃戻ったのか逆算してみますと、おそらく1956年です。といいますのは、父は母と結婚するまでに二十何回のお見合いをこなしております。いくつも縁談があったのをすべてことわっているわけですね。この次々ことわった縁談を含めて父の結婚については次回に話そうと思うんですけれども、重要なことは二十数件の縁談をことわるには、たとえ片っ端からことわっていったとしても、一年以上はかかるであろうということです。そして、先に述べましたように、父は遊び人をやっていた。どこにも勤めずにただ毎日を飲み歩いているような男には、絶対に縁談はやってきません。ということは、母と結婚する一年以上前には、もう父は再び仕事をしていた、つまり次兄の会社に戻っていたのだと思われるわけです。

元の会社に戻っていくらもたたないうちに、プラスチック製品が出回るようになります。包装資材として新しいプラスチックは無限の可能性をもっている。まだ会社そのものが若かった時代です。そういう新しい流れに飛びつくのに障害はない。まずはセロファンを扱うようになっていった。飴の包み紙なんかにもよく使われておりましたね。このセロファン紙からビニル、さらにはポリエチレンへと進んでいくのは自然な流れだったようです。

この新しいポリエチレン事業に、前に述べましたカルビーの倒産が影響を及ぼします。どういうことかというと、急成長期に、次兄の会社はカルビーへの売上に依存しておりました。だから、カルビーが一旦倒産したときには会社の存続に関わるような打撃を受けた。もちろんその打撃はカルビーが復活するとともにすぐに回復するわけですけれども、もうそのようなことをしていては到底駄目だということになります。そこで大口の取引先よりはむしろ小口でもいいからたくさんの取引先と商売をしたいと経営方針が変わります。ということは、たくさんの顧客をとらなければいけない。すると営業は、あちこち訪問して回って、一軒一軒顧客を開拓していかなければいけない。飛び込みでもとにかく数を当たれということになります。ところが、父は無口な人です。無口な人が営業職というのはそれだけでもハンデがあります。もっと言うならば、父はこの頃には吃音が強くなっております。どもりです。外へ出て営業するのはどうにもうまくいかない。

新しい商材のポリエチレンが入ってきましたところで、父は、自分が営業に行かずに新たな顧客を開拓するにはどうすればいいかと考えます。そして新戦略を考案します。価格表を作って印刷させ、そしてそれを職業別電話帳を使って顧客になりそうな事業所に片っ端から送りつけるわけです。BtoBのダイレクトメールですね。まだそういう手法が一般的ではない時代に、画期的な営業方法を考えた。これは、購買側からすると非常にありがたい。一方で販売する側からはちょっと危険なことでもあるわけです。どういうことかというと、商売は同じ製品でもできるだけ高く売ったほうが儲かります。ただ、高く売ろうとすると他社との競合が発生する。うまく高く価格を設定するには、なるべく手の内を明かさない方がいいわけです。相手に相場感がないほうが、商売はしやすい。相場がわからなければ、相対で相手がうんというようなところで価格を設定できる。基本的に商売は、相対で価格を決めていくのが、売る側としてはありがたいわけです。ところが買う側としてはそれでは本当にその値段が妥当なのかわかりません。不透明なんですね。けれど、下手に値切って売ってくれないと、困ります。特に手に入りにくい新製品では困るわけですよ。

買う側としては、情報がオープンなほうがありがたい。これは現代のインターネットでも同じことがいえます。インターネット通販がなぜリアルな商店での販売よりも急速に伸びたかといいますと、価格が一目で比較できる、価格が完全にオープンになっている、その状態で消費者が選ぶことができるからでしょう。それがインターネット通販の普及の大きな要因だと思われます。父は同じことをインターネットがない時代に郵便でやったわけです。本来なら売る側の都合で隠しておきたい価格情報を全部オープンにしてしまった。この値段で買ってくれるならうちはいつでも売りますよと、価格表を大阪を中心にバラ撒いた。父がよく話してくれたことには、和歌山からわざわざ買いに来てくれた人までいるということです。和歌山、奈良、兵庫、京都と、大阪だけでなく近県にまで、この価格表を送りつけた。これが当たったんですね。なにしろポリエチレンは新しい商品です。多くの事業者はそれをどこで買えばいいかわからない。うっかり大手の会社に問い合わせると、高い価格をふっかけられる。なにせ販売する側は新商品ですので強気です。それが妥当な値段なのか、相場なのかということは、買う側にはまったくわからない。ところが、そこに父が作った価格表がやってくる。なんだ、こんな値段で買えるんじゃないかと、どんどんお客が増える。このようにして、父の会社は急速にポリエチレン袋販売のシェアを伸ばします。そして父も、苦手な外回り営業に出る必要はなくなって、その価格表で釣り上げた固定顧客の対応だけしていればいいということになる。であっても、父の営業成果というものは非常に大きいわけです。社長の弟というだけではなく、父の社内での評価がぐんぐん上がっていった。このような時代であったというふうに聞いております。 

家一軒分を飲んでしまった話

昭和の頃の男の遊びといいますと、飲む、打つ、買うの三つということになっております。父は、私が知っております限りにおいては、飲む──酒を飲むことはずいぶんとやっておりました。晩年に至るまで晩酌は欠かさなかった。打つ──つまり博打に関しては、まったく手を出しませんでした。商売人としては、最終的に損をすることがわかってるものに対してお金を出すのはあり得ないことだったようです。もちろんすべて商品というものは、最終的にはお金が出ていくわけです。けれども、それによって戻ってくるリターン、満足度でありますとか利便性といったものがある。博打に関しては、戻ってくるものはお金でしかないわけです。金を払って金を得る。であれば、戻ってきたものの方が支出したものよりも増えていなければおかしい、というのが商売人の考え方だったようです。買う──つまり、女遊びのほうは知りませんね。少なくとも私が知ってる範囲の父は堅物であり、母に対して一切の不貞を働かなかったと記憶しております。もちろん子どもの知らないところで何をやってたのかまでは断言できません。けれど女の人のいる店に行ったという話は一切聞かなかった。家庭内でも猥談のようなものは一切しなかった。そういう人でした。

なんでこんな話をしたかと言いますと、晩年になって父が家一軒分をまるまる遊びに使ってしまった、という話をしてくれたからなんですね。どういうことかといいますと、実は父はいちど、次兄の会社を辞めている。そして、一年だか二年だか、遊び人をやっていた。そういう事実があったようです。

父が勤めていた包装用品販売店は、会社だといっても、先に申しましたように、江戸時代以来たいして代わり映えのしない営業、つまり、住み込みの小僧を使うような商店です。小僧である父としては、どこまでが生活でどこまでが仕事かわからない。ですからもう高校出て大人になってしまった父としては、いったい自分が何のためにこき使われてるのか、わからなくなってしまったのでしょう。高校までは出してもらったものの、その後も兄弟の力関係の中でこき使われることが続き、嫌になってしまったんでしょう。

ちなみに、父は長いこと、親戚の中では「無口な人」で通っておりました。けれども、これは標準的な河内の人がおしゃべりだということの裏返しであって、そこまで無口ではありません。普通に日常的なことは喋ります。「風呂・飯・寝る」で生きているような人では、当時からなかったと思います。けれど、河内の標準からいえば、父ぐらいに喋らない人はもう無口の極みみたいに思われていたようです。そして、この無口な性質の引き金になったのは、父が若い頃、吃音つまりどもる喋り方をしていたということではないかと思います。母によりますと、結婚した当時はまだこの吃音が残っていたようです。それは次第に解消して、私の記憶では吃音はもうなかった。吃音ですけれど、私の周囲を見てみますと、これはストレスが原因で始まることが多いようです。ということは、おそらく父は小僧から昇格した会社勤めの中で、毎日ストレスを感じていたんでしょうね。それで吃音が始まったのではないかと想像しております。

そのようなストレスの中で、父は会社を辞めます。会社を辞めればすぐに生活に困るかというと、実はそんなことはなかったのです。父は末っ子ですので、母親──つまり私の祖母からは非常に可愛がられておりました。ティーンエイジ以降には次兄夫婦が親代わりのように父を育ててきたわけですけれども、実際の母親はちゃんと里にいるわけです。松屋町筋の奉公から帰った父を、彼女は温かく迎えます。それまでも父のためには、いろいろ手を尽くしているのですね。たとえば父が農業をやっておりましたときには、父のために一反の田んぼを買い与えております。どのような経緯で購入したのかよくわかりませんけれども、戦後の混乱期ですので、男手が減ってますから、耕し手がない田んぼを手放そうという人もおそらくはいたのではないかと思われます。そういう時に末っ子のことを思い出して田んぼ買っておいてやる。そういう母親であったようです。その彼女が、父が小僧として只働きのように働かされているのを不憫に思ったのか、まとまったお金を用意してくれました。これで独立しなさい、というわけですね。といっても、現代のような意味での独立資金ではありません。昔の百姓屋のことですから、田んぼはあるのであとは家を建てたら、それで暮らしていける、という感覚だったのだと思います。だから、家を建てるための資金として、まとまったお金を父に与えてくれた。金額も聞いたんですが、忘れてしまいました。物価もちがいますから、覚えていてもあまり参考にはなりません。

しかし、考えてみれば無謀な話です。まだ二十代半ばの父にとって、そんな大金を手にするのはかなり荷が重かったはずです。父は、持ち慣れないお金を持ってどうしたか。遊びに行ったわけです。日が暮れ方になりますと、粋な着流しに身を包み、ミナミまで出かけていく。繁華街に着きますと、そこの通りの端から一軒ずつ順に潰していくスタイルで、毎晩毎晩遊び歩いたんだそうです。

これがいったい飲む方だったのか買う方だったのか、私にはとんと見当がつきません。ただその後の父の言動から考えまして、どちらかというと飲む方だったんじゃないかなという気はしております。一年ぐらいだったように聞いたと思うんですが、正確なところは忘れました。一年半だったかもしれません。そうやって飲み歩いておりますと、当然お金は減っていきます。もらったお金が半分まできたとき、さすがに父もこれはまずいと思ったようです。それで残ってる半分のお金でもって、家を建てました。建てた土地は、もともと実家の持ち物であった蕗畑です。小高い丘の麓にちょっとした湿地があって、ここが蕗の畑になっていたようです。その蕗畑を貰い受けた。

ちょうどそこから浅香の駅にかけて、この頃に新たな住宅地が造成されています。おそらくその丘を削るブルドーザーが入ったその同じ時期に、この蕗畑も整地されたんだと思います。この辺りは推測です。なぜそんな推測が成り立つかというと、この家を建てた数年後には結婚して母がその家に入りますが、そのときにはもう浅香の駅までずっと平地として見渡せたと聞いているからです。電車が通っていくのが見えたそうです。ということは、おそらく家を建てた段階では丘は削られてのでしょう。

ともかくも、もらったお金の半分で家が建った。ということは、飲んでしまった半分のお金は、実は家一軒分の価値があったわけです。若い父は、家一軒分を飲み尽くしてしまった。そんな無鉄砲なことをしていたことを、死ぬ直前まで家族には黙っていた。父にはそういうところもあったようです。 

包装用品販売業の成長

私が子どもの頃、家には、「これはいったい何に使うんだ?」「なんでこんなものがこの家にあるんだ?」みたいなものがちょくちょくとありました。それは、父の会社の取引先が倒産したときに、差し押さえで持ち帰った品物だったんですね。企業が倒産すると、債権者はまず在庫を差し押さえる。もちろん差し押さえた側の会社は、少しでも債権回収ために差し押さえ品を現金に替えようとします。大阪にはバッタ屋と呼ばれる商売があり、そういう倒産流れ品であるとか、ちょっと出所のわからない怪しげなものを買い取ってくれます。しかしそれでも、バッタに流すようなこともできないような半端な品物、あるいは逆に「これは家の方でもらっといた方がいい」と思えるような品物だと、家に持って帰ってくる。そういうことがありました。昭和の昔にも、それなりに会社の倒産は多かったんですね。景気・不景気の循環があって、不景気になると会社が潰れる。それは昔も今も変わらないわけです。

実際、現在まで生き残ってる有名企業の中にも、かつて倒産を経験してる会社がいくつもあるようです。父が話してくれたことによると、あの「かっぱえびせん」で有名なカルビーという会社も、倒産を経験しているそうです。カルビーは押しも押されぬ大製菓会社ですけれども、もともと戦後広島の焼け野原の中から立ち上がった会社です。ちょっと前に堺の朝鮮人の飴屋の話を書きましたけれども、戦後はとにかく甘いものが不足しております。そこで、原料となる物資を手に入れることができた人が、甘いものを供給することによって一気に成長する素地があった。カルビーも、戦争中に軍が備蓄していた物資に対して何らかのアクセスが可能だった人が関係者の中にいたそうです。それで戦後すぐに甘いものを供給できた。広島は原爆で被害が大きいのですけれども、カルビーはこれを逆手にとって、「原爆=いちばん強いもの」というイメージを初期の頃は商売の旗印にしていたようです。戦後すぐの日本には、いまのように放射線に対する恐怖があまり浸透しておりません。新型爆弾の威力がすごいものだったということは、みんな知っております。その被害が筆舌に尽くし難いものだということも理解しております。けれども、そこで撒き散らされた放射線による健康被害、それが長年にわたって人の体を蝕んでいくという事実は、まだあまり知られておりません。ということで、原爆を商標やデザインに使った商品をつくると、子ども相手にけっこう売れたんだそうです。

このカルビーの社長が、あるとき、リュックサック一つ背負って松屋町筋に現れた。新しく店を出しておりました父が小僧として店番をしている眼の前に、ふらりと現れたんだそうです。新しく事業を始めたから包装紙を売ってくれ、ということなんですね。この会社がそこまで急成長するとは、当時父も次兄も予想してなかったんだと思います。けれども単身乗り込んできて熱心に語る社長にほだされて、次兄はこの広島の会社に包装紙を卸す決断をします。カルビーは戦略が成功したのか、急成長を遂げていきます。いくらもたたないうちに、この新しい会社は次兄の経営する会社の最大の大得意先になるわけです。すぐにカルビーは大阪にも支店を出して、この大阪支店との間でかなり大量の取引が行われるようになる。いつのまにか会社はカルビーにおんぶにだっこという形で経営を続けるようになったそうです。

そのカルビーが倒産した。いったいいつ頃のことなのか、正確な年代までは私は聞いておりません。カルビーのホームページを見ましても、倒産したという不名誉な経歴はどこにも書いてません。事実関係は不明で、あくまで父の言葉だけによるのですけれど、黒字倒産だったようです。急成長の会社にありがちなことです。発注に対して生産が追いつかないとか資金繰りが間に合わないということから、黒字倒産が発生します。黒字倒産でも倒産は倒産ですから、不渡りが出るわけです。取引先は非常に困るわけです。

情報をいち早くキャッチした父の会社は、まずはとにかく大阪支店のものを差し押さえる。それでも最大の得意先ですので、売掛金の回収にはとても足りません。そこで父はオート三輪に乗りまして、広島まで現物を差し押さえに行ったんだそうです。まだまだ道路網も整備されていない時代、それだけでもかなりな冒険だったと思われます。ちなみにカルビーは、すぐに再建を果たしました。もともと黒字倒産ですから、そんなに深刻なものではなく、すぐに経営が回復し、不渡りだった手形も順に支払っていったということです。社会的な信用も落ちず、順調にその後も成長を続けることになったわけです。だからこそ、現在の姿があるのですね。

ただし、この事件は父の兄の経営する会社の経営方針に大きな影響を与えます。一つの会社にぶら下がっていたのでは、何かあったときに非常に影響が大きい。経営というもの危なくする。健全な経営のためには、取引先を分散させる必要があるんだということを、会社全体が認識したんだそうです。このあたりの方針変更が、実はその後の父の活躍の下地になっていくわけです。そういう意味では、父の人生にとって実に重要な事件であったようです。

父の教育

現代では賃労働つまり企業に勤務することで給与をもらう、そしてそれによって生活するライフスタイルが一般的なものとなっています。昭和の言い方ではサラリーマンですね。そういう暮らし方が標準になっています。もちろん、現代でも賃労働以外で生きてる人はいくらでもいます。けれども、メインストリームの生き方は、給与生活です。ここ四半世紀ばかりの間に非正規雇用がどんどん増えてきましたので、サラリーマンといっても正社員とは限りません。けれど、外見上は正社員と非正規労働の姿は全く変わりません。そこに経済的な格差はあるわけですけれども、会社から給与をもらってそれをもとに生活するライフスタイルの本質は同じことです。

かつてはそうではなかった。このようなライフスタイルがメインストリームになったのは、1960年代から70年代にかけてのことのようです。ずいぶん幅が広い言い方をしましたけれども、実際のところ、都市部においては1960年代初めぐらいにはこういう給与生活が既にメインストリームであったようです。植木等が演じるサラリーマン映画が大ヒットしたのがこの時代ですからね。しかし少し都市部を外れると、もうそこにはそうではない稼ぎの姿があった。さらに田舎の農村に行きますと、農業を主体にした複合的な稼ぎが1970年代末ぐらいまではまだまだあったようです。もちろん1960年代から出稼ぎや若年労働者の流出によって三ちゃん農業と言われるような姿が社会問題になるほどではあったわけですけれども、やはりそれでも単一の企業からの給与だけに依存するのではない生き方が田舎にはあった。それがどんどんとマイナーなところに追いやられていって、世の中は全てどこからか給料をもらうことを基本に考えるようになっていったわけです。

話がずいぶんと大きくなりましたけれども、じゃあ都市部では1960年あたりより以前には給料をもらう暮らし方がそこまでメインストリームでなかったのかというと、どこを境ともいえないほど、ゆっくりと主流の位置を獲得していったようです。明治時代には安定した給与生活は一部のエリートのものであったようですが、大正時代あたりからサラリーマン的な生き方がどんどんどんどん増えていったようです。それでも同時に、都市部でもまだまだ江戸時代以来の前近代的な雇用というものがけっこう生き残っていた。富裕な家では書生や女中といった生活まで丸抱えの雇用関係がありましたし、商店では住み込みの小僧や丁稚のようにどこまでが生活でどこまでが勤務であるのかが判然としない生き方がまだまだしっかりと存在していたようです。

何が言いたいのかというと、父が戦後松屋町筋で仕事を始めたとき、これはもう完全に江戸時代のスタイルでした。住み込みの小僧なんです。次兄の会社です。その兄の指図でそこで仕事して、兄の夫婦が食わしてくれる。たまに小遣いをくれるようなことがあっても、明確な雇用関係があるわけじゃない。勤務しているというより、そこで生活しながら仕事をしている。現代からいえばありえない状態ですね。

経営者であります次兄──十何歳はなれた親子のような存在である兄──は、そうやって無償で労働力を得る代わりに、この末の弟を庇護する、大事に育てる義務も負っているわけです。飯も食わせれば、寝るところも提供する。そして教育を施すのも、やはり彼らの義務になります。実際、自分のところで商売をやっていく上で、ある程度の基礎教育がなければ使いものにならない、という必然性もあったわけですね。いつまでも小僧同然の雑用ばかりやらせてるわけにもいきません。それで、とにかく商業高校に行けということになりました。

ただし、父には高校を受験する資格も学力もありません。なにしろ学制が変わって新制高校ができたばかりの頃です。旧制度と新制度の間の接続は、当然うまくいかないわけです。父のように旧制の高等小学校を卒業した人は、中学を卒業して得られる高等学校の受験資格はない。けれど新制高校ですから、昔のように中学を4年ないしは5年行く必要がなくて、3年で十分ということになります。そうすると、1年間の教育の欠落部分をどこかで埋め合わせれば受験ができる。調べていないので正しいかどうか自信がないのですが、どうやら特例措置があったようです。父によりますと予備校のような所に行き、そこで勉強すると高等学校に入れる仕組みだったらしい。それで父は予備校──学校の名前も聞いたんですけどもすっかり忘れてしまいました──に通います。そこで勉強をするんですけれども、何しろ高等小学校──現在の中学校に当たるところでの教育を、実際にはまるで受けておりません。少年飛行兵になるつもりでしたし、学校でも授業がほとんどない。さらに食料増産の掛け声の中でむらの農業の担い手となっている。さらに戦争が終わって兄の指図で仕事を手伝う。学校なんて行ってる時間がありません。結局ほとんど勉強もしないままになんとなく学校は出た、義務教育は終えたことになっています。世の中そんな生徒ばかりです。ですので全く勉強がわからない。おまけに新制度になり、授業科目も大きく変わる。特に大きく変わったのは英語です。戦前にはなかったものです。もちろん旧制高等学校では英語とかドイツ語といった外国語の科目がありましたけれども、小学校はもとより高等小学校でも戦時中は英語は敵性語ということで教えられていない。ところが戦争が終わると米軍が進駐しております。これからは英語だということで、世の中が英語教育に力を入れるようになる。けれどもそこで必要とされる英語の素養は、父には全くありません。予備校に行っても、英語がもう全然ダメです。数学に関しても、分野によってはなんとかついていけるんだけれども、分野によってはまったくちんぷんかんぷんだと。そういう手も足も出ないような状態で1年ほどを予備校で苦労します。しかし、高等学校の方も新しい学校をつくっていく上で生徒を必要としていたのでしょうか。どうもその辺りの事情はよくわかりませんけれども、会社の近くの商業高校を受験したところ、「お前は成績が優秀だから二年生に編入する」と、いきなり二年生からのスタートになったんだそうです。合格どころか途中編入となった。これには年齢的なこともあったのかもしれません。あるいは会社で実際に働いてる経験を評価してもらったのかもしれません。何にせよ、小学校以来中断していた教育をいきなり高校二年生で再開することになります。

1年ほどはまあ真面目に通うんですけれども、相変わらず英語はチンプンカンプンですし、そのうちに仕事がどんどん忙しくなってくる。ということで、父は三年次の途中からはもうほとんど学校には行かなかったんだそうです。それでも卒業が近づいてきますと、「とにかく学校に来い、卒業証書はやるから」と話が来る。結局父は、修学旅行にも参加し(いまでは修学旅行はずいぶん繰り上げてやりますけれども、昔は修学旅行は高校三年生の卒業直前にあったもんだそうです)、ちゃっかりと卒業証書ももらって、商業高校卒業の肩書きと何人かの実業界に羽ばたく友人との親交をもって、会社に戻ることになるわけです。 

オート三輪の運転手

運転免許は、いまでは厳格に管理されております。けれども、自動車の普及が始まった頃にはかなりいい加減なものだったようです。江戸川乱歩怪人二十面相のシリーズを読んでおりますと、助手の小林少年が登場しますが、彼は免許を持ってないのに運転をするんですね。免許を持ってないけれども運転が上手なんだ、みたいなことが小説の中に平気で書いてある。小林少年は明智小五郎の助手ですから、もちろん警察の人とも面識があるわけです。つまり、警察も別に無免許だからといって取り締まることをしない。ずいぶんといい加減です。免許は持ってれば持ってた方がいいんだけれどとりあえず事故を起こさなきゃそれでいいよっていう時代が、おそらくあったのでしょう。これはアメリカでも同じような感じらしくて、向こうの小説を読んでいましても、やはり無免許で車に乗っているシーンが割と普通に出てきます。昔の話です。現代では日本でもアメリカでも、無免許は厳しく取り締まられるわけです。

高等小学校を出たか出ないかさえうやむやなままにいつの間にやら農業から家業の手伝い、そして闇屋のような商売から松屋町筋の会社の住み込み奉公へと、目まぐるしい変化をとげた父ですけれども、この松屋町筋に住み込んでおりました時代に車の運転を覚えます。新しい社屋の向かいに自動車のディーラーがあったそうです。後になって父は生涯トヨタ車に乗り続けることになるのですが、この自動車販売店がその縁だったようです。最初からトヨタ系列だったのかどうかわかりませんけれど、私が子どもの頃にはトヨタの正規ディーラーでした。そこの所長と親しくなったのが、どちらも若かった戦後すぐのこの時代なのだそうです。父が暇そうに店番をしておりますと、自動車販売店の若い店員が声をかけてくる。ちょっと乗ってみないかというわけです。まだ貧しい時代ですから、自動車を買う人も少なく、ディーラーも暇だったんでしょう。父も若かった。いまの高校一年生か二年生ぐらいの年齢ですから、やんちゃ盛りです。触ったこともないものにどうやって乗るんだっていっても、乗れと言われたら乗ってみるぐらいの冒険心はあります。あたりは焼け野原ですから、少々運転が荒くても物を壊す心配はそこまでありません。少し乗ってるうちにけっこう慣れてくる。自動車屋の方も客が多いわけじゃなくて暇なので、懇切丁寧に教えてくれる。ここはこうやるんだ、あそこはそうするんだっていうふうに、手取り足取りですね。ということで父は車の運転を瞬く間に覚えました。面白いエピソードがあるんですけれどもそうやって車が運転できるようになった頃のことです。たまたま近くの店にタクシーの運転手がやってきてそこでちょっと一杯やる、休憩をすることにした。父は好奇心から、タクシーをみる。運転を覚えたてで、乗ったことのない車種に興味があったんでしょう。これはどうやって動かすんだというようなこと聞くと、タクシーの運転手はいろいろ教えてくれる。忙しくない、のどかな時代です。ここはこう、そこはそうというような話をする。要領がつかめたところで、ちょっと乗ってぐるっと回って来てもいいよと言ってくれる。そこで父は、このタクシーに乗りまして少し走ってみる。すると、駅前で客がタクシーを止めるわけです。客の方は運転しているのが無免許の子どもだとは知りません。偉そうに乗ってくると、どこそこ行ってくれと言う。父は仕方ないので客の言う通りに走って目的地まで届けて、そして戻ってきてタクシーをちゃんと運転手に返した。何事もなかったようにタクシーは営業を続けるわけです。そんな信じられないようなこともあったんだそうです。

こんなふうにして父が運転できるようになりますと、次兄、つまり包装用品販売事業の経営者である社長は、父に配達を任せるようになります。自分が出歩いて店番を小僧にさせるよりは、自分が店にいてしっかりとものの出入りを管理した方がいいわけです。事務仕事もたくさんあるわけですからね。そこで父はオート三輪に乗り、あちこちと配達に出かける。当時、闇物資が統制を外れて流通し、政府がそれを何とか管理しようとしていた時代です。ですのであちこちに検問がある。大和川を越えて配達に行き、そして戻ってくるときに検問に引っかかる。父は無免許ですから、捕まるわけにいきません。しかし、警察官の方は免許があるかどうかなんてことは全然問題にしない。オート三輪の荷台を見て、闇物資が載っていないことを確かめるだけです。父は包装材を扱ってる会社のものですから、別に食料品のような闇物資を運んでるわけじゃありません。ですので荷台の中身をチラッと改めた警察官は、さっさと行けと検問を通過させてくれる。無免許であっても検問を難なく抜けられたのどかな時代でもあったそうです。 

ちなみに、やや後になって父は改めてきちんと免許をとるのですが、無免許ながら毎日のように運転しているわけですから、当然、一発で実技試験に通ったそうです。その頃は学科試験らしいものも特になかったそうです。ですので、自動車学校にも行かずに免許をとった。しかも、その時代の免許は最強で、後の法改正のたびにランクが上がり、最終的には大型免許にまで大化けしていました。晩年になっても無事故無違反のゴールド免許で、やっぱり叩き上げは強もんだなと思います。

百姓から商売人へ

飴をつくる朝鮮人業者に薪を運ぶ仕事をしはじめた父です。この仕事、事業としては次兄のもので、父は単なる使い走りです。それがどういうふうに始まったのか、想像ですけれども、おそらく飴の原料となる米を闇で農村に買いつけに来た飴屋が、ついでに薪はないかと尋ねた、というようなことから始まったんじゃないでしょうか。戦争直後の混乱の時期ですから、誰しもが何か稼ぎの口を求めていました。とにかく自分にできることを見つけ、うまく立ち回って少しでも稼ぐ、そして少しでも楽になろうという風潮があった時代です。次兄も米はないかと言われれば闇で流せる分は流す、薪はないかと言われればなんとかして手に入れて薪を出す。近くに松林があったわけですから、その松を──合法なのかどうかはよくわかりませんけれども──薪としてどんどんどんどん出していく。そんな中で今度は飴屋から飴を包む紙はないか、包装紙はないかと言われたそうです。

次兄は父よりも十何歳、ほとんど二十歳近い年上ですから、もうこの時点では結婚しております。結婚相手の女性の親戚、叔父か何かに当たる人が製紙会社の重役だったということです。ちなみに、いまでは日本の製紙会社は寡占化が進んでおります。大手の会社が数えるほどあり、そして地方にはごく小さな製紙会社がたくさんある。そんな寡占が進んでおりますけれども、かつてはこの業界は群雄割拠だった。ある程度の規模のしっかりした地方の製紙会社が各地にあったようです。四国だったらこの会社、北陸地方だったらこの会社というような感じですね。しっかりした会社が日本にいくつもあったようです。そのうちの一社にコネがあった。このコネをうまく使って、紙をまわしてもらう。そうこうするうちにこの紙に印刷ができないかという話が出る。その頃には長兄が印刷業に手を出していました。これはこの以前からやってたのか、それともこれを機会に始めたのか、そのあたりはよくわかりませんが、ともかくも印刷も自前でやって納品をするようになる。さらには包装紙だけじゃなくて販売用の紙袋がないか、という話がくる。やっぱりあちこち走り回って袋をつくって納品する。そんなことをやって、だんだんと包装紙を扱う業者のようになっていく。当然、父も次兄の指図で走り回る。この段階ではまだ輸送手段というと荷車か牛に引かせる牛車です。こういうもので商品を運ぶ。もちろん農業もやっていますが、だんだんだんだんと次兄の包装業の仕事の方に比重が移っていく。

そんな中で、次兄がある決断をいたします。商売が大きくなってくると農村の片隅で片手間でやってるようなことでは埒が明かない。これは大阪市内に店を出すべきだ。そして、松屋町筋に店を出す。松屋町筋は、大阪では玩具や駄菓子の問屋街として知られております。そういうところに進出する。なぜ百姓出の若者がそんな場所に店が出せたのかというと、これは単純に戦争でそのあたり一面が焼け野原になっていたからです。がらんと何もなかったんですね。戦争でリセットされたところですから、歴史のある街に新参者でも入ることができた。焼け野原に質素な建物を建てて、そこ社屋として仕事を始める。次兄は夫婦でそこに移り住みます。父は次兄の使い走りのようなもんですから、兄にひっついてこの新社屋に住み込み小僧のような形で働き始める。

こうして父は次兄に引っ張られるようにして農業から足を洗うわけです。そして問屋街の小僧として仕事を始める。最初のうちは店番みたいなことが多かったようです。雑用ですよね。次兄は車で仕入れや配達に走り回る。車と言いましても、戦後すぐは自動車なんて簡単に手に入るもんじゃありません。オート三輪です。この時代、日本にはオート三輪のメーカーが乱立したようです。三輪車ですから、自動車よりもバイクに近い。二輪車をつくるような感覚で設計製造ができる。だから、中小メーカーが結構あったようです。商店をやるとなると、かなりの投資になっても運送手段としてこのオート三輪が必要になる。そして配達の方は次兄がやりますから、それまで荷車やら牛車を引いていた父の仕事はそこではなくなるわけです。しかし店の方が留守になってはいかんと、店番、それから商品の整理など、仕事はいくらでもあります。焼け野原で父の商売人としての生活が始まった戦後でした。