この声は届くか

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父が生まれた頃の故郷

父は七人だか八人だからのきょうだいの末っ子として生まれました。父の父親がどんな人だったのか、私にはよくわかりません。というのも、父の父親つまり私の祖父は、父が小学生のときに死んでいるからです。その後は歳の離れた長兄と次兄が親代わりとして父の面倒を見てきました。二十歳以上違いますので、もう本当に親子のような関係だったようです。

父が生まれ育った場所は、現在では大阪市から途切れない住宅地のようになっています。けれど、交通の発達していない当時の感覚では、大阪の市街地からはかなり離れていました。おまけに大和川という大きな川をはさんでいます。本当に純粋な農村だったんだと思います。農業が中心であっただろうという以上には、どんな家業だったのか、実のところはあんまりよくわかっておりません。百姓屋であったのは間違いありません。江戸時代の半ば以降、昭和のエネルギー革命の頃までは、農村は農業を中心にしつつ、複合的な生業を組み合わせて成り立っているのが普通だったようです。農業そのものも複合的であり、たとえば父の子どもの頃の思い出話には牛の草を刈りに出たことがよく出てきます。牛は畜力と堆肥のためであったわけですが、現代の感覚からいえばそれだけでもかなり複合的です。

当時の行政村、自治体としては、父の住んでいた新田地区は五箇荘村に所属していました。五箇荘村はその名前からわかりますように、かなり古い農村です。このあたりは郷土史家に聞けばもっと正確にわかるんだとは思うんですけれども、名前に「荘」とあることから、平安時代律令制度がまだ生きていた時代に成立した荘園ではないかと思われます。日本の農村の一般としてその後に続く自治村の形ができたのはおそらく鎌倉時代の末から室町時代にかけてのことであろうとは思われますが、いずれにせよ、それだけ古い農村です。

その中で、父の住む新田地区だけは随分と新しかった。それだけに五箇荘の本村の方からは新田の子どもはずいぶんと馬鹿にされたそうです。江戸時代には身分制度があり、被差別民がいたということは広く知られております。新田地区の場合は成立が江戸の末か明治の初頭であるということ、それから生業が百姓であったということから、いわゆる被差別部落の定義には当てはまりません。ただ格下であると見られていたのは間違いないようです。父が子どもの頃はよく、「新田の子は、こうだ」「新田の子は、ああだ」みたいに学校でいじめられたということです。

私が生まれた頃には、この辺りは住宅地化がそろそろ始まっておりまして、住宅地と田んぼがパッチワークのように存在しておりました。ちょうど私が大きくなっていく途中で、田んぼが潰されて住宅地になるのをよく目撃しておりました。ですから、昔はこの辺りは全部田んぼだったんだろうなと思っていました。田んぼが広がる原風景の中に徐々に徐々に住宅地が増えていったんだろうなというふうに、子どもの頃は思っていたわけです。しかし、改めて昔の航空写真──戦争直後に撮られた航空写真がWebで公開されているんですけれども──そういうものを見てみますと、どうもそうではない。田んぼは水利のいい有利な土地にしか開かれてないんですね。それ以外のところがどうなっているかというと、松林あるいは雑木林のようです。山林として管理されていたようなのです。考えてみれば、江戸時代から明治にかけての農業は基本的には山林や雑木林の存在が前提になっておりました。田んぼだけでは成立し得なかったんですね。それはこの河内のような平野部においても同じだったようです。もっとも、山林といっても起伏の緩やかなところですので、後の住宅地の開発に際しても大きな不便はなかったようです。

そして、住宅地が造成される前にはどのように利用されていたのかというと、軍隊が駐留地として使っている。あるいは大学が研究施設を置く。そのような形での土地利用というものが宅地開発の以前に先駆けて存在したようです。あるいは学校や刑務所、墓場などですね。そういう施設がつくられていた。その後に宅地開発というものが行われて、山林から宅地になっていき、私の記憶にある田んぼと住宅地のパッチワークという状況ができあがった。これがどうも正しい理解のようです。

父はこの農村で生まれて、父親が早くに亡くなりました。この父親、私から見ての祖父の像というのが、あまりわかりません。小柄な人であったというのと、心臓病で亡くなったというのがなんとなく伝わっております。あと、けっこう遊び好きな人だったのかもしれません。昔でいうところの「遊び」とは、飲む・打つ・買う、ですね。そういうのも割とやってたのかなと思わせるエピソードがあります。というのは、ずっと後になりまして、父の父親代わりでありました次兄が亡くなったとき、その遺産相続をするときにどうも母親の違う兄弟がどこかに一人いるんじゃないかと、父がずいぶん探し回った、ということを聞いております。ということは、腹違いの兄弟ができる、当時の言い方で言うと妾とか、現代的にいえば不倫の関係で結婚外の子をもうけるような、そういうこともするような人であったのかもしれません。しかし、この辺りのことは、ほんと、よくわかりません。祖父の名前ぐらいは知っています。戸籍とか調べれば何代前かの昔まで遡ることができますし、実際、そういう戸籍も取ったことはあります。けれども、正直なところ、自分自身がそこまで興味がないので、すっかり忘れてしまいました。コピーもとっておりません。今後必要があればまたで調べればいいや、と、ほったらかしになっています。

父の母親、私から見ての祖母の方は、私が小学生の頃までは存命でした。私も小さい頃に何度かお目にかかった記憶はあります。「何度か」というよりも、近所ですからしょっちゅう会っていたんだとは思います。けれども、私自身は、数えるほどしか覚えていません。元気だったころは記憶になくて、どちらかというと歳をとって動くのが大義になったころのことばかり覚えています。お手伝いさんが一人ついておりまして、その介助で隠居所にいたときのこと、あるいは本家の方で移転引っ越しがありまして、新たな家に移った後で奥の間の方で病気療養していたときのこと、そんなことが少しだけ印象に残ってるぐらいです。子どもでしたから、どんな人だったかもあまりよくわかりません。たくさんの子どもを生み育ててきた明治の女性であったのだろう、それなりに厳しいところのある、昔気質の女性であったのだろうと、思うだけです 。