この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

父の子ども時代

私の父が小学校の頃、あるいはそれ以前の幼児期のことについて、私はほとんど知りません。父もあまり喋らなかったと思います。わずかに語ってくれたなかで最も古いものは、おそらく小学校の低学年の頃のことだと思うんですけれども、年上の子どもに連れられて堺の街を抜けて大浜の方まで行って、そしてそこのところで年上の子どもが急にいなくなってしまったときのことでしょう。つまり、迷子になったわけですね。どうやって帰ったのか、むら総出で探しているところにようやく日が暮れて帰り着いた、というような話でした。かねや太鼓で神隠しにあった子どもを探すのが、昔は普通に行われていたそうです。父もそんな神隠しにあった子どもとして探してもらったわけですね。ちょうど阪和線浅香駅ができた頃、ひょっとしたらできる直前かもしれませんが、その頃だと思います。後に国鉄、現在のJRの駅として同じ場所にあるのですけれども、この駅のすぐ裏手には当時墓場がありました。堺の刑務所で亡くなった人を埋葬したものなんだそうです。つまり、ひどく寂しいところであったわけです。この駅は浅香山の山の中腹にありました。いまはもう平地、普通の街中なんですけども、元々そこにはちょっと小高い山があって、その山の西側の脇に張り付くようにして駅があったわけです。その山のすぐ東側が墓場だったんですけれども、そこで山が終わったかというと、そこからさらに低い丘となってそのまま東の方に伸びていました。その先に、父の住んでいたむらがある。そんなところでしたので、非常に寂しいところであったわけです。そんな駅の辺りまでポツンと帰ってきたところに、かねや太鼓で探しに出た人たちと巡り合った。ほっとしたんじゃないかなと思います。小さな子どもですからね。

小さな頃の思い出話としては、そういうのを聞いたぐらいですね。後は小学校のことを少し。学校は普通に行ってたようです。低学年の頃は先生にも恵まれたようで、優しい先生のもとで普通に小学生をやっていたようです。けれど、学年が上がりますと、様子が変わってくる。4年生か5年生かその辺りで担任が変わりまして、急に厳しい先生になったということです。女の先生だったということなんですけれども、どうも父とは反りが合わなかったようですね。何かというと叱られたそうです。ものさしでピシャッとたたかれる。どうも目をつけられていたようですね。父は末っ子ですから、周囲から非常に可愛がられて育ったわけです。ある意味、甘やかされて育った。お姉さんがたくさんいましたから、いろいろと面倒を見てもらったようです。けれども小学校の間に父親を亡くしております。言ってみればそういう不幸な環境にもあったわけですが、ちょうどその頃に担任が変わってけっこう辛い思いをしたようです。

いまではもう信じられないことかもしれませんけれども、昔は教師に対して贈り物をするのがごく普通の習慣でした。父の家は農家ですから、鶏を飼っておりました。その鶏の産んだ卵を集めておいて、数が揃ったところで学校に持って行って教師に貢物として差し出す。しかし、教師の方は何だこんなものというような扱いをしたんだそうです。何しろ同じ学校区内でも新田地区の外にはにはもっと裕福な家がいくらでもあったのです。新田の子どもということでずいぶんと不利な立場にあったと言えるのかもしれません。

この新田のむらですけれども、私自身が覚えておりますのはもうずっと後になって、地名も変わってからの姿です。父の子どもの頃から30年とか40年とかたっております。時代はすっかり違うのですけれども、少しは面影があったかもしれません。駄菓子屋が一軒あったのを覚えております。それから駄菓子屋の近くには何やら看板を掲げた家があったような気もします。いずれも百姓屋なんですね。百姓屋ですけれども、何やかやと商店を兼ねていた。ちなみに私の家の本家はその当時はもうすでに印刷業を兼ねておりまして、元々の牛小屋か納屋だったとおぼしきところを工場にしておりました。そんな感じで百姓屋が兼業するのが少なくとも昭和30年代の後半、40年代の頭ぐらいには普通でした。おそらくそれは本質的にはもっと何十年も前から都市近郊の農村の姿であったのだろうと思われます。父の話によりますと、この新田のむらにも散髪屋が一軒あったということです。小さなむらでも散髪屋が営業できるぐらいの商圏があったんですね。

現代の感覚ですと、そんな数十軒しかないようなむらで散髪屋で生業を立てていくのはありえません。しかし、当時はほとんどの家が兼業農家です。百姓をやりながら片手間に散髪をする。つまり、自給的な暮らしの上に、いくらかの農作物を販売し、そして手に職があるものはそれで商売をして、現金を手に入れる。その現金で必要なもの買って生活する。そのような暮らしがこの大阪近郊の農村で成り立っていたのだろうと思われます。

さらに私が印象に残っておりますのは、このむらに、父の言葉を借りますと「阿呆」が住んでいたということです。「それはなんだ」と、もう30年ほど前になりますけれども、父に尋ねましたところ、「いまの言葉でいうと気狂いやなあ」みたいなことを言っておりました。30年前でも「気狂い」という言い方はちょっとどうかと思うようなレベルであったわけですけれども、父が若い頃のむかしはそういう言い方も通用していました。まあ精神障害であるのか知的障害であるのか、そのあたりはよくわかりません。とにかく一般社会からはみ出してそこで生きていけなくなってしまった人が、むらはずれに住みついていたというのです。彼が何をやっていたのかというと、田んぼの鳥追いであるとか、そういう半端な仕事を頼まれてはやっていたそうです。そして、それによっていくらかの生活に困らないだけのものをむら人から少しずつ分け与えられていた。むらはずれに一人住んでおりまして、子どもらの相手なんかもよくしてくれた。ときどき声をあげたり、少し怖いところもあったそうですが、機嫌のいいときには随分と遊んでもらった、とのことです。そういう人、障害者をむらのなか、生活の中に組み込んでいくようなことが、その時代にはふつうにあったようです。いまでいうところのインクルーシブな暮らしが、昭和の初め頃の農村にはどうもあったようですね。