この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

戦時中の暮らし

私の父は昭和6年の生まれですから。ざっと計算しますと、小学校を卒業したのが昭和19年の4月となりましょうか。昭和19年というと、戦争もかなり終盤に近づいてきまして、空襲なんかもされるようになっていた頃ですね。けっこう大変な時代です。当時の教育課程では、小学校を卒業すると中学校に進学するか、もしくはそうでない者は高等小学校に進学することになっていたようです。中学校は5年制で、4年終了時から高校への進学ができる。高等小学校は2年制で、卒業したら就業するのが基本ですね。

父は(本人の主張を信じる限り)勉強はできたようです。運動能力も高かった。小学校の高学年の頃だと思われるのですが(ひょっとしたら高等小学校かもしれませんけれども)市内の陸上大会が開かれました。そこに学校から選ばれて出場したそうです。代表は2名で、その1名に選ばれた。新田地区は学校から離れておりましたから、通学の往復だけでもずいぶんと足腰が鍛えられたのでしょう。2位に入賞したそうです。そして、学業の方もそれほど悪くなかった。ただ、担任の教師との折り合いが非常に悪かった。中学校に進学するのを担任の教師はずいぶんと反対したそうです。しかし、父は中学校に進みかったので、なんとか受験させてくれと頼み込んで内申書をもらって受験をした。父の説によりますと、この内申書が非常に悪しざまに書いてあったんですね。ですので、当日の試験いかんにかかわらずあっさりと落とされてしまった、ということです。このあたりどこまで信憑性があるのかわかりませんが、父の理解では、内申書のせい、つまり、小学校の担任のせいで落ちたということです。

中学校に進学できないとなりますと、当然ながら高等小学校へ進学ということになります。しかし父はこの高等小学校というところが気に入らなかったようです。最初から行く気はないんですね。そんなところいるよりはと、少年飛行兵を目指しました。少年飛行兵として採用されたら、義務教育の過程から外れるわけです。ですので、学校へ行っても高鉄棒で大車輪の練習をやるぐらいだったそうです。ちなみに、飛行兵になるためには必ず大車輪を含めた器械体操が必要になるそうです。そういうことに日々を費やして、ほとんど学業はしなかったようです。

さらに、この頃になりますと、むらの男手が兵隊に取られていなくなります。父のすぐ上の兄も大陸の方に行きました。やがて戦病死することになりますけれども、そんなふうにどんどんどんどん若い男たちがいなくなってしまう。いまは道路工事の関係で移転してしまったようなのですが、私が子どもの頃によくお参りしたむらの墓地には、陸軍の星のマークをつけた立派な墓石が並んでおりました。新田地区の若い男たちは、相当な数が戦争で死んだようです。

むらの働き手が少なくなる一方で、農業にはどうしても男の力が必要になります。まだ機械化されてない時代です。畑を耕すのも人力かあるいは畜力です。つまり、人の力か牛を使う。牛を使うのもそれなりに体力が要ります。父は先ほども述べましたように、陸上の選手に選ばれるほどの強健な子どもです。まだ軍隊にとられる年齢ではないけれど、いまでいう中学生ぐらいですから、そこそこに力がある。ちなみに、後のこと──私が子どもの頃のこと──ですが、父はずいぶんと背が高かった。実際の身長はいまの平均的な男性の身長ぐらいでしかありません。けれども父の世代は栄養状態があまり良くありませんから、全体的にみんな小柄です。ですので、電車に乗ると父が若い頃には人より頭一つ抜けていました。私も子どもの頃は、父は背が高い人だなぁと思っていました。そんな体格ですから、むらの方からは労働力として期待される。ということで、戦争末期から戦争が終わってしばらくの間、父は新田地区の農作業の担い手としてあちこちから頼まれては田畑の仕事をしていたようです。

具体的にどんな農作業をしていたのかはあまりしっかりと聞いていません。私が子どもの頃、父は鍬の使い方を私に教えてくれました。その鍬の扱い方を後に田舎でずいぶんと褒められましたので、あれは相当にプロフェッショナルな使い方であったのだろうと思います。そういう技術が身体に染みつくぐらいに、機械化以前の農作業をしっかりやったのでしょう。田畑での農作業とは別に、父がよく話してくれたのは草刈りです。牛に食べさせる草を刈るのに、今日はここ、明日はあそこというふうにローテーションを決めて、鎌を持って出かける。父は左利きですので、左利き用の鎌を綺麗に磨いで、そして頭を使ってうまい具合に草を刈り集める、とようなことをやっていたそうです。

農作業で忙しい毎日ですから、どのみち学校に行って勉強してるような時間はない。たまに学校に行ったら鉄棒の練習している。というようなことで、父の学業からのドロップアウトはこんなふうに始まったようです。学校そのものも、勤労奉仕で授業はほとんどなかったということです。父が勤労奉仕に狩り出されなかったのは、「食料増産」という大義名分で、むらの農業を支えていたからですね。工場なんかに行かされていたら虐待とかもあっただろうし、そういう意味では父は運のいい人だったのかもしれません。

そうこうしているうちに戦争が終わります。戦争が終わりますと、急に世界が変わるわけですね。父もどんどん成長していきます。ですから、このあたりから話がずいぶんと生臭くなってきます。その辺りはまた明日ということにしましょうか。