この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

農業から薪の販売へ

戦争が終わる前のことか戦争が終わってからのことか、ちょっとはっきりはしないのですけれど、父が農業をやってた頃、肥汲みが仕事のうちだったと話してくれたことがあります。江戸時代、都市部で出てくる屎尿を汲み取って近郊農業が行われていたのはよく言われていることです。「江戸はエコ」みたいな本にはたいてい書いてあります。いまの練馬区や足立区といったところの百姓が長屋に肥汲みに来て、そして野菜を置いていく。物々交換でリサイクルが行われていたのだ、というようなことが必ず出てきますね。この「肥料として屎尿を持ち帰って近郊の農村がそれによって成り立つ」構造は、江戸時代どころか1960年頃を境にして急速に化学肥料が普及するまでは、都市近郊では普通に行われてたもののようです。もちろん化学肥料は戦争前からありますから、徐々に徐々に置き換わっていったわけです。けれども、手近なところにあり、しかも昔から実績があるものとして、比較的最近まで下肥が利用されていたのは、間違いないようです。そういえば私が子どもの頃、1970年前後までは、たしかに近くの田んぼにはあちこちに「ドツボ」とか「野壺」と呼ばれる肥溜めがあって、危ないからと近づくのを堅く戒められていたものです。もっとも、臭いので言われなくても近寄ろうとは思いませんでしたが。

父の話に戻ります。父の上の兄は兵隊に取られたわけですけれども、親代わりだったいちばん上の兄はもう四十がらみの中年だったこともあるのでしょう、戦争には行きませんでした。その下の次兄も、理由はわかりませんが兵役を免れておりました。農村経済を支える重要な働き手だったからかもしれません。この次兄が主に家業を差配していたようです。肥料を取りに行くのもこの次兄の監督の下で父が行くわけです。交通機関といいましても、現在の軽トラみたいなものはありません。牛に荷車を引かせるんですね。牛車というと平安時代の貴族のものを思い浮かべるわけですけれども、戦争前の農村においては牛がノロノロ引っ張る荷車を牛車と呼んでいたようです。この牛車に肥桶をどんどんと積みまして、父がゆっくりゆっくり追っていく。牛のスピードですから、非常にゆっくりしたものです。大和川を渡る橋がその頃は近くにありませんので、ぐるりと大回りして追っていく。4時間とか5時間かかるような道のりを大阪の住宅地へ向かう。天王寺の近く辺りまでは行ったようです。一方、次兄の方は、頃合いを見計らいまして、近道をささっと追いついてくる。目的地付近で合流しました二人が、あらかじめ決められた長屋を訪問しては肥え汲みをするわけです。ずいぶんとひどい言葉もかけられたといっておりました。汚いであるとか、そんな桶の持ち方をしたらそこらじゅうに汚いものが飛び散るからやめてくれとかね。桶は、天秤棒で前後に担ぐスタイルで、細い路地や家の中に入っていったようです。そして大根のような野菜を置いていくのに、それが多いの少ないの虫食いだの泥がついているのと、文句を言われる。ずいぶんと邪険な扱いも経験したそうです。

そんな昔ながらの農業を、父は戦争が終わる前後に行っておったわけです。戦争が終わりますと、一気に世の中の様子が変わります。たとえばそれまでは近所ではどちらかというと浮いた存在だったアメリカかぶれの若者がいたそうですが、その人が何やら米軍にツテができたのか、いきなり羽振りが良くなるとかいったことがあったとも聞いております。

戦争が終わりますといろいろ物資の統制とかもあります。都市部の人々は買い出しで苦労したというような話が伝わっておりますが、父は農村の人でしたから、立場が逆でした。闇で食料を分けてほしいという人もやってきたようですが、大家族のなかの下っ端だった父はその相手をすることはなかったようです。

そのような統制経済の中で、その統制をかいくぐるように経済の中心部に躍り出てきたのが朝鮮人です。朝鮮人という言い方はやや差別的な色合いが入って使われておりますけれども、これは当時としては正式な名称でした。終戦とともに日本は朝鮮半島の領有権を手放しました。その関係上、朝鮮半島出身者(朝鮮籍の人々)は一種の無国籍状態になったのですね。この人々のことを朝鮮人と法律上区分したんだそうです。後に朝鮮半島の方で国家が成立するとともに、この朝鮮人という区分はいろいろな変遷を経ていくわけですが、終戦直後には旧朝鮮籍の人々がかなり日本全国あちこちにいたようです。特に大阪には結構多かった。これらの人々はもちろん戦争中はずいぶんと虐げられてきたわけですが、戦争が終わり、日本国政府の管轄外に置かれるんだという主張の元に、経済活動を自由に行うようになったそうです。物資不足の統制経済のなかで、自由に動けるんだと主張し、公権力もあまり強くそれを否定できなかったようです。そういう人がこの地域にもいたんだそうです。

父と彼らの間でどのようなつながりがあったかと言いますと、直接つながりがあったというよりは、次兄を通じて仕事が舞い込んできたのですね。どういう経緯だかは知らないのですが、次兄は、ある朝鮮人から燃料を調達してほしいと頼まれたようです。なぜ燃料を調達する必要があったかといいますと、朝鮮の人々が戦後いろんな経済に手を出していく中で、特に知られておりますのがどぶろくの製造でした。密造酒です。朝鮮半島では伝統的に台所でどぶろくの製造をどこの家庭でもやる文化があったようです。だから、もともと技術はある。そして、どぶろくをつくろうとすると、その前に甘酒をつくる段階がある。麹で澱粉を糖化するプロセスです。この麹によって澱粉を糖化したものをそのまま煮詰めますと、水飴になる。戦争直後で物資が不足する中で、特に甘いものに対する需要が非常に高かった。そこで、朝鮮の人々のなかには水飴をつくってそれを販売する事業を起こす人が現れた。少なくとも堺にはそういう人がいた。このプロセスでは、澱粉を加熱して麹が働く条件を整えてやらなければなりません。つまり燃料が大量に必要になる。そこで近郊の百姓でありました父の兄に燃料がないかと持ちかけるのは自然な流れであったのだろうと思います。

当時この新田地区の周辺の山林には松林が多かったようです。松林といえば、戦争中にガソリンが不足するから松の根を掘り取ってそこからガソリン代替の油を精製することが一部では行われていたようです。松根油というものですね。ただ、父の話では、戦争中に特に堺の辺りの松を大規模に掘ったということはなかったようです。とはいえ、そういう社会の空気の中で、松を燃料のために勝手にとっていいんだというような雰囲気が生まれていたのかもしれません。ともかくも、父は次兄の差配の元、牛車で燃料としての松を堺の街に運ぶ仕事もするようになった、と聞いております。 

戦時中の暮らし

私の父は昭和6年の生まれですから。ざっと計算しますと、小学校を卒業したのが昭和19年の4月となりましょうか。昭和19年というと、戦争もかなり終盤に近づいてきまして、空襲なんかもされるようになっていた頃ですね。けっこう大変な時代です。当時の教育課程では、小学校を卒業すると中学校に進学するか、もしくはそうでない者は高等小学校に進学することになっていたようです。中学校は5年制で、4年終了時から高校への進学ができる。高等小学校は2年制で、卒業したら就業するのが基本ですね。

父は(本人の主張を信じる限り)勉強はできたようです。運動能力も高かった。小学校の高学年の頃だと思われるのですが(ひょっとしたら高等小学校かもしれませんけれども)市内の陸上大会が開かれました。そこに学校から選ばれて出場したそうです。代表は2名で、その1名に選ばれた。新田地区は学校から離れておりましたから、通学の往復だけでもずいぶんと足腰が鍛えられたのでしょう。2位に入賞したそうです。そして、学業の方もそれほど悪くなかった。ただ、担任の教師との折り合いが非常に悪かった。中学校に進学するのを担任の教師はずいぶんと反対したそうです。しかし、父は中学校に進みかったので、なんとか受験させてくれと頼み込んで内申書をもらって受験をした。父の説によりますと、この内申書が非常に悪しざまに書いてあったんですね。ですので、当日の試験いかんにかかわらずあっさりと落とされてしまった、ということです。このあたりどこまで信憑性があるのかわかりませんが、父の理解では、内申書のせい、つまり、小学校の担任のせいで落ちたということです。

中学校に進学できないとなりますと、当然ながら高等小学校へ進学ということになります。しかし父はこの高等小学校というところが気に入らなかったようです。最初から行く気はないんですね。そんなところいるよりはと、少年飛行兵を目指しました。少年飛行兵として採用されたら、義務教育の過程から外れるわけです。ですので、学校へ行っても高鉄棒で大車輪の練習をやるぐらいだったそうです。ちなみに、飛行兵になるためには必ず大車輪を含めた器械体操が必要になるそうです。そういうことに日々を費やして、ほとんど学業はしなかったようです。

さらに、この頃になりますと、むらの男手が兵隊に取られていなくなります。父のすぐ上の兄も大陸の方に行きました。やがて戦病死することになりますけれども、そんなふうにどんどんどんどん若い男たちがいなくなってしまう。いまは道路工事の関係で移転してしまったようなのですが、私が子どもの頃によくお参りしたむらの墓地には、陸軍の星のマークをつけた立派な墓石が並んでおりました。新田地区の若い男たちは、相当な数が戦争で死んだようです。

むらの働き手が少なくなる一方で、農業にはどうしても男の力が必要になります。まだ機械化されてない時代です。畑を耕すのも人力かあるいは畜力です。つまり、人の力か牛を使う。牛を使うのもそれなりに体力が要ります。父は先ほども述べましたように、陸上の選手に選ばれるほどの強健な子どもです。まだ軍隊にとられる年齢ではないけれど、いまでいう中学生ぐらいですから、そこそこに力がある。ちなみに、後のこと──私が子どもの頃のこと──ですが、父はずいぶんと背が高かった。実際の身長はいまの平均的な男性の身長ぐらいでしかありません。けれども父の世代は栄養状態があまり良くありませんから、全体的にみんな小柄です。ですので、電車に乗ると父が若い頃には人より頭一つ抜けていました。私も子どもの頃は、父は背が高い人だなぁと思っていました。そんな体格ですから、むらの方からは労働力として期待される。ということで、戦争末期から戦争が終わってしばらくの間、父は新田地区の農作業の担い手としてあちこちから頼まれては田畑の仕事をしていたようです。

具体的にどんな農作業をしていたのかはあまりしっかりと聞いていません。私が子どもの頃、父は鍬の使い方を私に教えてくれました。その鍬の扱い方を後に田舎でずいぶんと褒められましたので、あれは相当にプロフェッショナルな使い方であったのだろうと思います。そういう技術が身体に染みつくぐらいに、機械化以前の農作業をしっかりやったのでしょう。田畑での農作業とは別に、父がよく話してくれたのは草刈りです。牛に食べさせる草を刈るのに、今日はここ、明日はあそこというふうにローテーションを決めて、鎌を持って出かける。父は左利きですので、左利き用の鎌を綺麗に磨いで、そして頭を使ってうまい具合に草を刈り集める、とようなことをやっていたそうです。

農作業で忙しい毎日ですから、どのみち学校に行って勉強してるような時間はない。たまに学校に行ったら鉄棒の練習している。というようなことで、父の学業からのドロップアウトはこんなふうに始まったようです。学校そのものも、勤労奉仕で授業はほとんどなかったということです。父が勤労奉仕に狩り出されなかったのは、「食料増産」という大義名分で、むらの農業を支えていたからですね。工場なんかに行かされていたら虐待とかもあっただろうし、そういう意味では父は運のいい人だったのかもしれません。

そうこうしているうちに戦争が終わります。戦争が終わりますと、急に世界が変わるわけですね。父もどんどん成長していきます。ですから、このあたりから話がずいぶんと生臭くなってきます。その辺りはまた明日ということにしましょうか。

父の子ども時代

私の父が小学校の頃、あるいはそれ以前の幼児期のことについて、私はほとんど知りません。父もあまり喋らなかったと思います。わずかに語ってくれたなかで最も古いものは、おそらく小学校の低学年の頃のことだと思うんですけれども、年上の子どもに連れられて堺の街を抜けて大浜の方まで行って、そしてそこのところで年上の子どもが急にいなくなってしまったときのことでしょう。つまり、迷子になったわけですね。どうやって帰ったのか、むら総出で探しているところにようやく日が暮れて帰り着いた、というような話でした。かねや太鼓で神隠しにあった子どもを探すのが、昔は普通に行われていたそうです。父もそんな神隠しにあった子どもとして探してもらったわけですね。ちょうど阪和線浅香駅ができた頃、ひょっとしたらできる直前かもしれませんが、その頃だと思います。後に国鉄、現在のJRの駅として同じ場所にあるのですけれども、この駅のすぐ裏手には当時墓場がありました。堺の刑務所で亡くなった人を埋葬したものなんだそうです。つまり、ひどく寂しいところであったわけです。この駅は浅香山の山の中腹にありました。いまはもう平地、普通の街中なんですけども、元々そこにはちょっと小高い山があって、その山の西側の脇に張り付くようにして駅があったわけです。その山のすぐ東側が墓場だったんですけれども、そこで山が終わったかというと、そこからさらに低い丘となってそのまま東の方に伸びていました。その先に、父の住んでいたむらがある。そんなところでしたので、非常に寂しいところであったわけです。そんな駅の辺りまでポツンと帰ってきたところに、かねや太鼓で探しに出た人たちと巡り合った。ほっとしたんじゃないかなと思います。小さな子どもですからね。

小さな頃の思い出話としては、そういうのを聞いたぐらいですね。後は小学校のことを少し。学校は普通に行ってたようです。低学年の頃は先生にも恵まれたようで、優しい先生のもとで普通に小学生をやっていたようです。けれど、学年が上がりますと、様子が変わってくる。4年生か5年生かその辺りで担任が変わりまして、急に厳しい先生になったということです。女の先生だったということなんですけれども、どうも父とは反りが合わなかったようですね。何かというと叱られたそうです。ものさしでピシャッとたたかれる。どうも目をつけられていたようですね。父は末っ子ですから、周囲から非常に可愛がられて育ったわけです。ある意味、甘やかされて育った。お姉さんがたくさんいましたから、いろいろと面倒を見てもらったようです。けれども小学校の間に父親を亡くしております。言ってみればそういう不幸な環境にもあったわけですが、ちょうどその頃に担任が変わってけっこう辛い思いをしたようです。

いまではもう信じられないことかもしれませんけれども、昔は教師に対して贈り物をするのがごく普通の習慣でした。父の家は農家ですから、鶏を飼っておりました。その鶏の産んだ卵を集めておいて、数が揃ったところで学校に持って行って教師に貢物として差し出す。しかし、教師の方は何だこんなものというような扱いをしたんだそうです。何しろ同じ学校区内でも新田地区の外にはにはもっと裕福な家がいくらでもあったのです。新田の子どもということでずいぶんと不利な立場にあったと言えるのかもしれません。

この新田のむらですけれども、私自身が覚えておりますのはもうずっと後になって、地名も変わってからの姿です。父の子どもの頃から30年とか40年とかたっております。時代はすっかり違うのですけれども、少しは面影があったかもしれません。駄菓子屋が一軒あったのを覚えております。それから駄菓子屋の近くには何やら看板を掲げた家があったような気もします。いずれも百姓屋なんですね。百姓屋ですけれども、何やかやと商店を兼ねていた。ちなみに私の家の本家はその当時はもうすでに印刷業を兼ねておりまして、元々の牛小屋か納屋だったとおぼしきところを工場にしておりました。そんな感じで百姓屋が兼業するのが少なくとも昭和30年代の後半、40年代の頭ぐらいには普通でした。おそらくそれは本質的にはもっと何十年も前から都市近郊の農村の姿であったのだろうと思われます。父の話によりますと、この新田のむらにも散髪屋が一軒あったということです。小さなむらでも散髪屋が営業できるぐらいの商圏があったんですね。

現代の感覚ですと、そんな数十軒しかないようなむらで散髪屋で生業を立てていくのはありえません。しかし、当時はほとんどの家が兼業農家です。百姓をやりながら片手間に散髪をする。つまり、自給的な暮らしの上に、いくらかの農作物を販売し、そして手に職があるものはそれで商売をして、現金を手に入れる。その現金で必要なもの買って生活する。そのような暮らしがこの大阪近郊の農村で成り立っていたのだろうと思われます。

さらに私が印象に残っておりますのは、このむらに、父の言葉を借りますと「阿呆」が住んでいたということです。「それはなんだ」と、もう30年ほど前になりますけれども、父に尋ねましたところ、「いまの言葉でいうと気狂いやなあ」みたいなことを言っておりました。30年前でも「気狂い」という言い方はちょっとどうかと思うようなレベルであったわけですけれども、父が若い頃のむかしはそういう言い方も通用していました。まあ精神障害であるのか知的障害であるのか、そのあたりはよくわかりません。とにかく一般社会からはみ出してそこで生きていけなくなってしまった人が、むらはずれに住みついていたというのです。彼が何をやっていたのかというと、田んぼの鳥追いであるとか、そういう半端な仕事を頼まれてはやっていたそうです。そして、それによっていくらかの生活に困らないだけのものをむら人から少しずつ分け与えられていた。むらはずれに一人住んでおりまして、子どもらの相手なんかもよくしてくれた。ときどき声をあげたり、少し怖いところもあったそうですが、機嫌のいいときには随分と遊んでもらった、とのことです。そういう人、障害者をむらのなか、生活の中に組み込んでいくようなことが、その時代にはふつうにあったようです。いまでいうところのインクルーシブな暮らしが、昭和の初め頃の農村にはどうもあったようですね。

父が生まれた頃の故郷

父は七人だか八人だからのきょうだいの末っ子として生まれました。父の父親がどんな人だったのか、私にはよくわかりません。というのも、父の父親つまり私の祖父は、父が小学生のときに死んでいるからです。その後は歳の離れた長兄と次兄が親代わりとして父の面倒を見てきました。二十歳以上違いますので、もう本当に親子のような関係だったようです。

父が生まれ育った場所は、現在では大阪市から途切れない住宅地のようになっています。けれど、交通の発達していない当時の感覚では、大阪の市街地からはかなり離れていました。おまけに大和川という大きな川をはさんでいます。本当に純粋な農村だったんだと思います。農業が中心であっただろうという以上には、どんな家業だったのか、実のところはあんまりよくわかっておりません。百姓屋であったのは間違いありません。江戸時代の半ば以降、昭和のエネルギー革命の頃までは、農村は農業を中心にしつつ、複合的な生業を組み合わせて成り立っているのが普通だったようです。農業そのものも複合的であり、たとえば父の子どもの頃の思い出話には牛の草を刈りに出たことがよく出てきます。牛は畜力と堆肥のためであったわけですが、現代の感覚からいえばそれだけでもかなり複合的です。

当時の行政村、自治体としては、父の住んでいた新田地区は五箇荘村に所属していました。五箇荘村はその名前からわかりますように、かなり古い農村です。このあたりは郷土史家に聞けばもっと正確にわかるんだとは思うんですけれども、名前に「荘」とあることから、平安時代律令制度がまだ生きていた時代に成立した荘園ではないかと思われます。日本の農村の一般としてその後に続く自治村の形ができたのはおそらく鎌倉時代の末から室町時代にかけてのことであろうとは思われますが、いずれにせよ、それだけ古い農村です。

その中で、父の住む新田地区だけは随分と新しかった。それだけに五箇荘の本村の方からは新田の子どもはずいぶんと馬鹿にされたそうです。江戸時代には身分制度があり、被差別民がいたということは広く知られております。新田地区の場合は成立が江戸の末か明治の初頭であるということ、それから生業が百姓であったということから、いわゆる被差別部落の定義には当てはまりません。ただ格下であると見られていたのは間違いないようです。父が子どもの頃はよく、「新田の子は、こうだ」「新田の子は、ああだ」みたいに学校でいじめられたということです。

私が生まれた頃には、この辺りは住宅地化がそろそろ始まっておりまして、住宅地と田んぼがパッチワークのように存在しておりました。ちょうど私が大きくなっていく途中で、田んぼが潰されて住宅地になるのをよく目撃しておりました。ですから、昔はこの辺りは全部田んぼだったんだろうなと思っていました。田んぼが広がる原風景の中に徐々に徐々に住宅地が増えていったんだろうなというふうに、子どもの頃は思っていたわけです。しかし、改めて昔の航空写真──戦争直後に撮られた航空写真がWebで公開されているんですけれども──そういうものを見てみますと、どうもそうではない。田んぼは水利のいい有利な土地にしか開かれてないんですね。それ以外のところがどうなっているかというと、松林あるいは雑木林のようです。山林として管理されていたようなのです。考えてみれば、江戸時代から明治にかけての農業は基本的には山林や雑木林の存在が前提になっておりました。田んぼだけでは成立し得なかったんですね。それはこの河内のような平野部においても同じだったようです。もっとも、山林といっても起伏の緩やかなところですので、後の住宅地の開発に際しても大きな不便はなかったようです。

そして、住宅地が造成される前にはどのように利用されていたのかというと、軍隊が駐留地として使っている。あるいは大学が研究施設を置く。そのような形での土地利用というものが宅地開発の以前に先駆けて存在したようです。あるいは学校や刑務所、墓場などですね。そういう施設がつくられていた。その後に宅地開発というものが行われて、山林から宅地になっていき、私の記憶にある田んぼと住宅地のパッチワークという状況ができあがった。これがどうも正しい理解のようです。

父はこの農村で生まれて、父親が早くに亡くなりました。この父親、私から見ての祖父の像というのが、あまりわかりません。小柄な人であったというのと、心臓病で亡くなったというのがなんとなく伝わっております。あと、けっこう遊び好きな人だったのかもしれません。昔でいうところの「遊び」とは、飲む・打つ・買う、ですね。そういうのも割とやってたのかなと思わせるエピソードがあります。というのは、ずっと後になりまして、父の父親代わりでありました次兄が亡くなったとき、その遺産相続をするときにどうも母親の違う兄弟がどこかに一人いるんじゃないかと、父がずいぶん探し回った、ということを聞いております。ということは、腹違いの兄弟ができる、当時の言い方で言うと妾とか、現代的にいえば不倫の関係で結婚外の子をもうけるような、そういうこともするような人であったのかもしれません。しかし、この辺りのことは、ほんと、よくわかりません。祖父の名前ぐらいは知っています。戸籍とか調べれば何代前かの昔まで遡ることができますし、実際、そういう戸籍も取ったことはあります。けれども、正直なところ、自分自身がそこまで興味がないので、すっかり忘れてしまいました。コピーもとっておりません。今後必要があればまたで調べればいいや、と、ほったらかしになっています。

父の母親、私から見ての祖母の方は、私が小学生の頃までは存命でした。私も小さい頃に何度かお目にかかった記憶はあります。「何度か」というよりも、近所ですからしょっちゅう会っていたんだとは思います。けれども、私自身は、数えるほどしか覚えていません。元気だったころは記憶になくて、どちらかというと歳をとって動くのが大義になったころのことばかり覚えています。お手伝いさんが一人ついておりまして、その介助で隠居所にいたときのこと、あるいは本家の方で移転引っ越しがありまして、新たな家に移った後で奥の間の方で病気療養していたときのこと、そんなことが少しだけ印象に残ってるぐらいです。子どもでしたから、どんな人だったかもあまりよくわかりません。たくさんの子どもを生み育ててきた明治の女性であったのだろう、それなりに厳しいところのある、昔気質の女性であったのだろうと、思うだけです 。

移住者の末裔

私の父は河内の百姓の家の生まれでした。河内というのがどこまで正確なのかということなんですが、大和川という川が現在、堺市大阪市を分けております。この大和川、江戸時代、1700年代に付け替え工事で今の流路になりました。これ以後、大和川より南側が和泉、北側が摂津となりました。河内と和泉の境界がどこに引かれ直したのかちょっとよくわからないんですが、付け替え工事が行われるまでは、旧堺市内が和泉、摂津、河内の三国の境目ということだったわけですから、父が生まれた村はいずれにせよ、河内の国に含まれていたのは間違いありません。

なんでも言い伝えによりますと(というか、父に聞いたところでは)、うちの家系は、父の父親の三代前に、八尾のあたりから現在の堺市内になる大和川の南側の地区に移ってきたんだそうです。父の先祖が一人でやってきたわけではありません。むらをあげて移ってきたようです。

これはどうも大和川の付け替え工事に関係した移転ではなかったかなと、子どもの頃には思っていました。父もどうもそういう認識だったようです。けれど、数えてみると全然合わないんですね。大和川の付け替え工事は江戸時代の真ん中あたりになるわけですが、うちの父から三代前というと、正確なところはわからないんですけれども、明治の初めか江戸時代の終わりあたりになろうかということです。すると、付け替え工事そのものによる移転じゃないようですね。

ただ、大和川の川筋が変わることによって八尾の辺りを中心とする中河内地方の農業水利の様子は、かなり変わったということです。ですので、ひょっとしたらそういう変化によって農業の条件が不利になった人々が何らかの政策によって大和川の南側にあった空いた土地に移住させられたのではないかなということも考えられます。このあたりは郷土史家にでもいちど尋ねねてみる必要があるのかもしれません。

ちなみに、そのむらは、戦争以前、というか、合併によって堺市編入されるまでは新田という名前だったそうです。新しい田んぼですね。ですからやはり、新たに他所から移ってきた人々のむらであるということはほぼ間違いないわけです。その新田村ができる前はどういうことだったのかはよくわからないんですけれども、大和川付け替え工事の頃の話をちょっと調べてみますと、ヒントが出てきます。西除川という川が狭山池の方から流れておりますが、この川と新たにつけられた大和川とを合流させるのに、そのまままっすぐに合流させると大和川の方が河床が高くなって逆流することになる。したがってある程度下流の方まで西除川大和川と平行するように流路を付け替えて、下流の方で合流するようにしたんだそうです。そして、この新田地区は、まさに大和川西除川が並行して流れるその間にできています。ですので、大和川の付け替え工事をしたときに半端な地として捨てられていたところを新たに開墾して田んぼができたのか、あるいは開墾のために八尾の方からむらを移してきたんじゃないかな、とも思えるのですね。

この新田地区、どのくらいの戸数だったのかよくわかりませんけれども、むかしからこの町内の人々だといわれるむらの人々は、10ぐらいの姓を分け合っています。つまり、10ぐらいの氏族があったんじゃないかと思われます。このむらの人々の名前の構成が割と面白いのです。漢字が10個ぐらいしか使われていないんですよ。その10個をいろんな組み合わせで姓にしている。つまり、これらの姓は、明治維新のときに創氏というか家を基本にする戸籍関係の法律ができて、新たにつけた苗字だと思うと、辻褄が合うんですね。その新しい姓をつけた人物がいる。皆が勝手につけたんじゃなくて、誰かまとめてつけたんだろうと思えば、この限られた文字の組み合わせでむら全部の姓ができているという謎が解けるんじゃないかと思うんです。役場の人が付けたのか、あるいはお寺か神社があって住職とか神職みたいな知識人がつけたのか、まあそういうことじゃないかなと想像しています。あくまでこれは想像です。いずれにせよ使われてる漢字が限られてるということは、割と安直につけたんだろうなと思うわけです。

ですので、私の苗字は松本といいますけれども、松本氏というのは何でも戦国時代まで遡ることができる氏族の名前であるんだそうですけれども、そういう由緒正しいところと繋がらないのは非常に明々白々です。うちの家は、松本という姓をもらう以前は丸市という屋号だったとわかっております。これはもう間違いないところです。というのも、父が母屋(本家)から分家するときに持ってまいりまして納屋に置いてあった農機具、鍬であるとか鎌であるとか、そういったものには◯に市という焼印が押されてあったのです。これはいまでもはっきりと覚えております。ですのでマルイチの方が先にあって、松本という姓は後からできたんだということが、このあたりからもわかるわけですね。 

思い出を、ここから語っていきます

ここまでブログを書いてきて、いくつかわかったことがあります。まず一つは音声入力そのままではやっぱり文章にはならないんだなということです。最近の音声入力は非常に進化していて、音声の聞き違い──タイピングになぞらえるとタイプミスみたいなことはほとんどありません。ですので、しっかり喋っていればそのまま流し込んでもそれなりにブログの記事にはなると考えられます。けれどしっかり喋るということが、ことのほか難しい。

以前、テン・マルを意識するとか、文の長さを意識するみたいなことを書きました。確かにそういうとこを意識すると多少はましになるのです。けれども、やはり話し言葉と書き言葉の違いというものがあるようです。しっかり書き言葉を意識して書き言葉のように話していけば、ある程度は書き言葉になるでしょう。けれど、それだと入力デバイスが変わっただけでタイピングしてるのとほとんど変わりません。時間もそれだけかかります。音声入力の良さというものがなくなるような気がするんですね。

このブログ、初回はいきなりアップしましたけれども、それ以降はずっと音声入力したテキストを一旦テキストエディタで書き直しています。音声入力したテキストを下書きとして、「てにをは」を直したり、部分的に順序を入れ替えたり、マルをつけたり、余分なスペースを取ったり、段落をつけたりしてからアップするようにしています。そういう下処理が必要なんだなということを感じました。
下処理をしてもやはり入力スピードということでいえば全体的にずいぶん早いです。毎日これだけのブログを書き続けるっていうのはふつうなら相当負担になります。それは、いままでの経験からわかってます。そういう意味ではたいした労力もなく続けられています。そうですね、喋ってる時間っていったら5分かそこらでしょう。そして修正する時間が20〜30分あればっていうところです。ずいぶんとスピードアップにはなっています。

もう一つは、これまで言ったことと関係するんですけれども、やはりある程度安定した持ちネタでないと、文にはできないなということですね。書くということには思考を深める働きもあります。ブログ記事を書くときには、書きながらアイデアをどんどん練っていくっていうのが結構よくあります。ところがしゃべりながらアイデアを練っていくのは、なかなか難しい。もちろん思いがけないアイデアが飛び出す、思いがけない組み合わせが浮かぶ、そして飛び出してきた新たな発想から発展させていくことができる場合は結構あります。以前にインプロビゼーションということで話した通りです。けれどやはり、論理的に思考を深めるっていうのは、喋りながらだとちょっと難しい。

そういうことを感じてきて、それではこれからどうするかっていうことです。この音声入力には非常に魅力感じてますので、続けていきたい。どうやって続けるかっていうとやっぱり持ちネタで続けていくのがいいだろう。そうすると、安定してる持ちネタっていうのは、なんだろう。結局のところ、昔話なんですね。思い出、歴史、自分の頭の中にある記憶。昔の記憶なんです。ですから、ここからは、そういったことを書き綴っていくブログとしてしばらく続けていこうかなと思います。具体的には、まずは親父の思い出あたりからしゃべっていったらいいんじゃないかなと思ってます。

ということで、音声入力についての話は「序章」ということでこのぐらいで一旦措きます。そしてまず、第一部として親父の思い出をこの後、続けていこうと思っています。 

「です、ます」で書くブログ

このブログを書いてきて、気がついたことがあります。音声入力だとどうしても「ですます」調になる、ということです。日本語には「だである」調と「ですます」調があるんですが、無意識のうちに「ですます」調を選択している。もちろん、「ですます」調できれいに統一されるかというと、そういうわけではありません。文の途中で「何々だ」「何々である」「何々する」と、「だである」調をはさむ。こういうことは割とよくあります。けれど、それはどちらかというとカギ括弧つき、あるいはリズムをつける、というような中で出てくる気がします。基本的には「ですます」調で喋ってるんですね。そうやってしゃべるということは、当然ブログが「ですます」調になるということです。
「だである」調を苦手にしてるのかっていうと、ふだんタイピングでものを書くときは「だである」調の方が多いですね。ブログもそうですし、その他の文も、基本的には「だである」調です。もちろん、これまでに「ですます」調でブログやメールマガジンを書いてこなかったわけではありません。「ですます」調の記事と「だである」調の記事が混在してるブログも結構ありました。変幻自在の調子で文を書くっていうふうなコメント頂いたこともあります。いろんな調子で書くことはできる、それだけの技術は持ってるつもりです。けれど、こうやって音声入力をするときには、「ですます」調が圧倒的に楽なんですね。

現代日本語においては、会話の形式は「ですます」調が基本になっている、そう解釈するのがいいのではないかと思います。もともと「ですます」の「ます」っていうのは「申す」から来てるのでしょう。「です」は、軍隊用語の「であります」が省略されて「です」になったのでしょう。「であります」っていうのは「ます」ですから「申す」なんですよね。つまり申し上げると、下から上に向かっての言い方です。ですからこれは、丁寧な言い方となる。一方、「だである」調というのは断定的な言い方となっています。現代の話し言葉ではあまり用いられません。まったく用いられないのかというとそんなこともなくて、(30年以上前と少し古い話になりますけれども)私が会社に勤めてた頃、ボスがよく「もうこれで十分だ」「さ、飲みに行こう」、そして店に入ると、「君はどうするね、私はビールだ」みたいな言い方をしておりました。「だ」をしっかりと使って話をしていたわけですね。学校文法的にいうと、「十分だ」は形容動詞の終止形ということになります。「私はビールだ」っていうのは「ビール」という名詞に「だ」という断定の助動詞がくっついたと解釈されます。
「だである」調は「ですます」調と意味内容は同じで、ただ「ですます」調が丁寧であるのに対して「だである」調は丁寧ではない形であるとされています。けれど、よく考えてみますと「十分だ。飲みに行こう。私はビールだ」というのは、ボスとしての立場から意思決定している文になるわけですよね。つまり、「だである」調は、基本的には決定事項の伝達や命令に用いられる。通常の会話では、「だである」調は、上の立場の者が下の立場の者に伝達する形、あるいは命令する形になってしまうんですね。日本の会話においては、上の者は下の者に対して説明はしません。説明はせずに方針を述べる、あるいは命令を下す。これが上の者が下の者に対する話し方の基本です。一方、「ですます」調では「申す」なのですから、これは立場が上の人に対する報告という形が基本になっています。下の者は上の者に対して報告をし、お伺いを立てるという形が基本になります。これが「ですます」調です。

ブログを書くとか本を書くというのは、基本的には決定事項の伝達や命令ではありませんし、報告やお伺いでもありません。叙述(ナレーティブ)です。そして、ナレーティブをしようとするときには、この上の者から下の者へのスタイルは、少なくとも音声として出すときには、うまくいかないんですね。上の者は下の者に対して説明する義務がないのが、日本の社会のあり方です。だから、「だである」調ではナレーティブは続かない。これに対して、下の者は上の者に対して事細かに説明しなければなりません。お伺いを立てるには、詳細に説明する必要があります。だから、下の者から上の者に話すスタイル、つまり「ですます」調は、ナレーティブを行う上でわりとうまくいく。だから、このブログのように音声入力で綴ろうとすると、どうしても「ですます」調になるのではないかと、そんなふうに思うわけです。実際、小学生に作文を書かせると、ほぼ百パーセント、「ですます」調です。中学生でもそうですが、タイミングをみて「だである」調の練習をさせます。生徒によっては、最後まで「ですます」を抜けられない場合もあります。そのぐらい、「ですます」のほうが使いやすんですね。

もともと日本語にはナレーティブを行う平体つまり丁寧ではない言い方がなかったのでしょうか。おそらく、現代の日本語の用法が確立する以前には、別なものがあったのでしょう。たとえば、古文書なんかには「なり」という表現がよく出てきます。そういう言い方がいつのまにか消えて、「だである」という割と使いにくい表現が生き残った。そして、書き言葉としてはその調子でナレーティブも可能だけれど、話し言葉では違和感がある。だから、「ですます」調のほうが好まれる。こんなふうに考えると割と理解しやすいんじゃないかなと思います 。