この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

百姓から商売人へ

飴をつくる朝鮮人業者に薪を運ぶ仕事をしはじめた父です。この仕事、事業としては次兄のもので、父は単なる使い走りです。それがどういうふうに始まったのか、想像ですけれども、おそらく飴の原料となる米を闇で農村に買いつけに来た飴屋が、ついでに薪はないかと尋ねた、というようなことから始まったんじゃないでしょうか。戦争直後の混乱の時期ですから、誰しもが何か稼ぎの口を求めていました。とにかく自分にできることを見つけ、うまく立ち回って少しでも稼ぐ、そして少しでも楽になろうという風潮があった時代です。次兄も米はないかと言われれば闇で流せる分は流す、薪はないかと言われればなんとかして手に入れて薪を出す。近くに松林があったわけですから、その松を──合法なのかどうかはよくわかりませんけれども──薪としてどんどんどんどん出していく。そんな中で今度は飴屋から飴を包む紙はないか、包装紙はないかと言われたそうです。

次兄は父よりも十何歳、ほとんど二十歳近い年上ですから、もうこの時点では結婚しております。結婚相手の女性の親戚、叔父か何かに当たる人が製紙会社の重役だったということです。ちなみに、いまでは日本の製紙会社は寡占化が進んでおります。大手の会社が数えるほどあり、そして地方にはごく小さな製紙会社がたくさんある。そんな寡占が進んでおりますけれども、かつてはこの業界は群雄割拠だった。ある程度の規模のしっかりした地方の製紙会社が各地にあったようです。四国だったらこの会社、北陸地方だったらこの会社というような感じですね。しっかりした会社が日本にいくつもあったようです。そのうちの一社にコネがあった。このコネをうまく使って、紙をまわしてもらう。そうこうするうちにこの紙に印刷ができないかという話が出る。その頃には長兄が印刷業に手を出していました。これはこの以前からやってたのか、それともこれを機会に始めたのか、そのあたりはよくわかりませんが、ともかくも印刷も自前でやって納品をするようになる。さらには包装紙だけじゃなくて販売用の紙袋がないか、という話がくる。やっぱりあちこち走り回って袋をつくって納品する。そんなことをやって、だんだんと包装紙を扱う業者のようになっていく。当然、父も次兄の指図で走り回る。この段階ではまだ輸送手段というと荷車か牛に引かせる牛車です。こういうもので商品を運ぶ。もちろん農業もやっていますが、だんだんだんだんと次兄の包装業の仕事の方に比重が移っていく。

そんな中で、次兄がある決断をいたします。商売が大きくなってくると農村の片隅で片手間でやってるようなことでは埒が明かない。これは大阪市内に店を出すべきだ。そして、松屋町筋に店を出す。松屋町筋は、大阪では玩具や駄菓子の問屋街として知られております。そういうところに進出する。なぜ百姓出の若者がそんな場所に店が出せたのかというと、これは単純に戦争でそのあたり一面が焼け野原になっていたからです。がらんと何もなかったんですね。戦争でリセットされたところですから、歴史のある街に新参者でも入ることができた。焼け野原に質素な建物を建てて、そこ社屋として仕事を始める。次兄は夫婦でそこに移り住みます。父は次兄の使い走りのようなもんですから、兄にひっついてこの新社屋に住み込み小僧のような形で働き始める。

こうして父は次兄に引っ張られるようにして農業から足を洗うわけです。そして問屋街の小僧として仕事を始める。最初のうちは店番みたいなことが多かったようです。雑用ですよね。次兄は車で仕入れや配達に走り回る。車と言いましても、戦後すぐは自動車なんて簡単に手に入るもんじゃありません。オート三輪です。この時代、日本にはオート三輪のメーカーが乱立したようです。三輪車ですから、自動車よりもバイクに近い。二輪車をつくるような感覚で設計製造ができる。だから、中小メーカーが結構あったようです。商店をやるとなると、かなりの投資になっても運送手段としてこのオート三輪が必要になる。そして配達の方は次兄がやりますから、それまで荷車やら牛車を引いていた父の仕事はそこではなくなるわけです。しかし店の方が留守になってはいかんと、店番、それから商品の整理など、仕事はいくらでもあります。焼け野原で父の商売人としての生活が始まった戦後でした。