この声は届くか

スマホの音声入力でどこまでブログが書けるのかの実験としてはじめます。途中で変わるかもしれません。

父の教育

現代では賃労働つまり企業に勤務することで給与をもらう、そしてそれによって生活するライフスタイルが一般的なものとなっています。昭和の言い方ではサラリーマンですね。そういう暮らし方が標準になっています。もちろん、現代でも賃労働以外で生きてる人はいくらでもいます。けれども、メインストリームの生き方は、給与生活です。ここ四半世紀ばかりの間に非正規雇用がどんどん増えてきましたので、サラリーマンといっても正社員とは限りません。けれど、外見上は正社員と非正規労働の姿は全く変わりません。そこに経済的な格差はあるわけですけれども、会社から給与をもらってそれをもとに生活するライフスタイルの本質は同じことです。

かつてはそうではなかった。このようなライフスタイルがメインストリームになったのは、1960年代から70年代にかけてのことのようです。ずいぶん幅が広い言い方をしましたけれども、実際のところ、都市部においては1960年代初めぐらいにはこういう給与生活が既にメインストリームであったようです。植木等が演じるサラリーマン映画が大ヒットしたのがこの時代ですからね。しかし少し都市部を外れると、もうそこにはそうではない稼ぎの姿があった。さらに田舎の農村に行きますと、農業を主体にした複合的な稼ぎが1970年代末ぐらいまではまだまだあったようです。もちろん1960年代から出稼ぎや若年労働者の流出によって三ちゃん農業と言われるような姿が社会問題になるほどではあったわけですけれども、やはりそれでも単一の企業からの給与だけに依存するのではない生き方が田舎にはあった。それがどんどんとマイナーなところに追いやられていって、世の中は全てどこからか給料をもらうことを基本に考えるようになっていったわけです。

話がずいぶんと大きくなりましたけれども、じゃあ都市部では1960年あたりより以前には給料をもらう暮らし方がそこまでメインストリームでなかったのかというと、どこを境ともいえないほど、ゆっくりと主流の位置を獲得していったようです。明治時代には安定した給与生活は一部のエリートのものであったようですが、大正時代あたりからサラリーマン的な生き方がどんどんどんどん増えていったようです。それでも同時に、都市部でもまだまだ江戸時代以来の前近代的な雇用というものがけっこう生き残っていた。富裕な家では書生や女中といった生活まで丸抱えの雇用関係がありましたし、商店では住み込みの小僧や丁稚のようにどこまでが生活でどこまでが勤務であるのかが判然としない生き方がまだまだしっかりと存在していたようです。

何が言いたいのかというと、父が戦後松屋町筋で仕事を始めたとき、これはもう完全に江戸時代のスタイルでした。住み込みの小僧なんです。次兄の会社です。その兄の指図でそこで仕事して、兄の夫婦が食わしてくれる。たまに小遣いをくれるようなことがあっても、明確な雇用関係があるわけじゃない。勤務しているというより、そこで生活しながら仕事をしている。現代からいえばありえない状態ですね。

経営者であります次兄──十何歳はなれた親子のような存在である兄──は、そうやって無償で労働力を得る代わりに、この末の弟を庇護する、大事に育てる義務も負っているわけです。飯も食わせれば、寝るところも提供する。そして教育を施すのも、やはり彼らの義務になります。実際、自分のところで商売をやっていく上で、ある程度の基礎教育がなければ使いものにならない、という必然性もあったわけですね。いつまでも小僧同然の雑用ばかりやらせてるわけにもいきません。それで、とにかく商業高校に行けということになりました。

ただし、父には高校を受験する資格も学力もありません。なにしろ学制が変わって新制高校ができたばかりの頃です。旧制度と新制度の間の接続は、当然うまくいかないわけです。父のように旧制の高等小学校を卒業した人は、中学を卒業して得られる高等学校の受験資格はない。けれど新制高校ですから、昔のように中学を4年ないしは5年行く必要がなくて、3年で十分ということになります。そうすると、1年間の教育の欠落部分をどこかで埋め合わせれば受験ができる。調べていないので正しいかどうか自信がないのですが、どうやら特例措置があったようです。父によりますと予備校のような所に行き、そこで勉強すると高等学校に入れる仕組みだったらしい。それで父は予備校──学校の名前も聞いたんですけどもすっかり忘れてしまいました──に通います。そこで勉強をするんですけれども、何しろ高等小学校──現在の中学校に当たるところでの教育を、実際にはまるで受けておりません。少年飛行兵になるつもりでしたし、学校でも授業がほとんどない。さらに食料増産の掛け声の中でむらの農業の担い手となっている。さらに戦争が終わって兄の指図で仕事を手伝う。学校なんて行ってる時間がありません。結局ほとんど勉強もしないままになんとなく学校は出た、義務教育は終えたことになっています。世の中そんな生徒ばかりです。ですので全く勉強がわからない。おまけに新制度になり、授業科目も大きく変わる。特に大きく変わったのは英語です。戦前にはなかったものです。もちろん旧制高等学校では英語とかドイツ語といった外国語の科目がありましたけれども、小学校はもとより高等小学校でも戦時中は英語は敵性語ということで教えられていない。ところが戦争が終わると米軍が進駐しております。これからは英語だということで、世の中が英語教育に力を入れるようになる。けれどもそこで必要とされる英語の素養は、父には全くありません。予備校に行っても、英語がもう全然ダメです。数学に関しても、分野によってはなんとかついていけるんだけれども、分野によってはまったくちんぷんかんぷんだと。そういう手も足も出ないような状態で1年ほどを予備校で苦労します。しかし、高等学校の方も新しい学校をつくっていく上で生徒を必要としていたのでしょうか。どうもその辺りの事情はよくわかりませんけれども、会社の近くの商業高校を受験したところ、「お前は成績が優秀だから二年生に編入する」と、いきなり二年生からのスタートになったんだそうです。合格どころか途中編入となった。これには年齢的なこともあったのかもしれません。あるいは会社で実際に働いてる経験を評価してもらったのかもしれません。何にせよ、小学校以来中断していた教育をいきなり高校二年生で再開することになります。

1年ほどはまあ真面目に通うんですけれども、相変わらず英語はチンプンカンプンですし、そのうちに仕事がどんどん忙しくなってくる。ということで、父は三年次の途中からはもうほとんど学校には行かなかったんだそうです。それでも卒業が近づいてきますと、「とにかく学校に来い、卒業証書はやるから」と話が来る。結局父は、修学旅行にも参加し(いまでは修学旅行はずいぶん繰り上げてやりますけれども、昔は修学旅行は高校三年生の卒業直前にあったもんだそうです)、ちゃっかりと卒業証書ももらって、商業高校卒業の肩書きと何人かの実業界に羽ばたく友人との親交をもって、会社に戻ることになるわけです。